Yama_Blog
デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。
そんなある日、ある本でこんな一文に出会った。
「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」
コンラート・フィードラー(1841-1895)という美学・芸術学者の言葉。ある本とはフィードラーの直接の著書ではなく、別の著者の本に引用として記載されていたもの。この文章の詳しい解説もなかったので、フィードラーがどんな意味合いでこの言葉を使ったのかわからない。しかし、この短い言葉、私には 「故絵を描くのでしょうか」の核心に触れられないでいた私のモヤモヤを一気に吹き飛ばす疾風であった。私の解釈を述べたいと思う。
人間は見たものを、その網膜に写ったままに受け止め、記憶しているわけではない。細かいことは抜きにするが、見たものは脳にそのまま投影されるのではなく、例えるなら「描かれている」のである。網膜が脳に送るのは単なる信号でしかない。そして脳はその信号のあるがままを、例えるならスライドの映像がそのままにスクリーンへ投影されるように機械的にそれを受け止め、記憶しているわけではないのである。これは説明するまでもないことであろう。同じものを見ても、どこを意識して見ているか、どこに関心を持ち、どこに無関心であるか、まったく人それぞれである。記憶の仕方もまた然り。何をどこをどのように覚えているか、何を忘れているか、そして記憶がどのように変化しているか、誰かと昔の思い出を話す、そんな時に誰もが実感することだと思う。内容、そしてそれについての価値判断まで異なっている。
「描く」ということは「投影する」という機械的なものではなく、「描き手」が想定され、その描き手の個性や興味、関心、価値観、世界観が反映される、そういう意味合いを持っている。その意味では誰にとっても「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」と言える。
絵を描くことに限らない。人間の脳の中でおこっていることは、だいたい外の世界と対応している。そして人間は目的とか意味ということとは、別に、頭の中に起こっていることは、外に出してカタチにしたい、行動にしたいという欲求を持っている。本能的に。何故とそうするのかと問われても、本能としか言えないような行為、活動。
「見ること」は人間にとって決して特別な行為ではない。普通の日常的な行為である。生きていれば、何かを見てしまっているのである。そして見てしまっている以上は、脳に対して描いてしまっているのである。見ることが特別な行為でなければ描くことも実は特別な行為ではない、人間の精神において全く日常的な行為なのである。あまりに当たり前のことすぎて、日常意識されることがないのだ。そして呼吸や食事という日常的に当たり前の行為が生命を支えているように、脳に「描くこと」は人間の精神活動の根幹をなしている、そう言い切って良い核心を、私は言葉「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」からの触発によって得ることができた。
繰り返すがコンラート・フィードラーがこの言葉に込めた意味合いはわからない。しかし、わからないのに、このような価値を私に与えてくれたそのことにこの言葉のすばらしさがある。
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人間の活動のすべてが「表現」か。こういう活動は表現であり。ああいう活動は表現ではない、と活動の内容によってそれが表現か否かを決めることはできないだろう。精神がそれを表現と捉えるかどうか、そのことば問題になる。日常のルーチンな活動であっても表現となりうる。しかし、精神がよりその活動を意識するのはやはりその活動に、なにかしら目新しさ、不可解さといったもの、「どうやらこれは簡単にルーチンに処理できるものではないな」というようなことが感じられるときではないだろうか。
深く考えなくても、壁に向かって投げ、跳ね返ってきたボールを受けることができるように、人間はいちいちはっきりと意識せずとも簡単に問題を解決してしまう力をもっている。いろんな問題をスムースに解決していく知識、知恵をもっている。日常の多くのことは多かれ少なかれそのように処理している。しかし、そのような活動では、「私」というものははっきりと浮かびあがってこない。既存の知識、知恵では対応できない慣れないこと、不可解なこと、新奇なこと。こうしたことに遭遇したならば、人間はそれに対処できるようになるため新しい知識、知恵、考え方、工夫を構築していかなければならない。すんなり解決できないこと、直ぐに答えが見つからないこと、どうやってよいのか既存の方法で対処できないこと、そうしたことに向っていく。私の精神は新しい「私」を作り上げてその問題に対処しようとする。そこに「私」という存在が浮かび上ってくる。私が更新される時、精神の新陳代謝。
人間が生きている、ということはただ単に生命活動を維持していることだけを指すのではない。精神的な部分も含めて生きているということである。まさにその生の充実の瞬間を求め「表現活動」は行われているのだ、と私は考えている。繰り返す。表現は特別な人の特別な活動などではなく、精神、心の働きを持つ人、つまり人類全てにとって必要な活動なのである。
先に、どんな活動が表現で、どんな活動が表現ではない、という区別があるわけではない、意識がそれを表現と捉えるときのレベルの差があるのだという主旨のことを述べた。あらゆる活動が表現となりうる。絵画だけが表現ではない。絵画という固有のジャンルだけに表現としての価値があるのではなく、絵画や音楽、小説、演劇などあらゆるジャンルの更に奥底にある原理によって絵画表現も支えられているということである。
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精神は眼や耳等の感覚器官を通じて情報を得る。しかし、眼も耳も私の外の世界に向けられている。私の内側には向けられていない。私の精神は私の外の世界の情報しか受け取ることができない。つまり心は、心にとっての最大の関心事である「私」そのものを直接捉えることはできない。勿論、心の内側に意識を向ける、例えば記憶を辿る、未来について空想する、といったことは内面に向けての心の働きであると言える。しかし記憶や空想も外の世界から得た情報を素にして形成されるものである。
人間の眼も、耳も外の世界に向けられている。では私は「私」をどのように捉えていけばよいのだろう。外の世界に働き変えている自分を捉えていく、それが心はそのようにして「私」を捉えようとしているのではないだろうか。つまり精神にとって「私」とは、「世界の中で活動している『私』」として捉えられている、あるいはそのようにしか捉えることはできないのではないだろうか、と私は考える。精神が「私」のことを捉えていくためには、私は活動しつづけていかなければならない、つまり表現、「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化」しつづけていかなければならないのではないだろうか。客観化とはコミュニケーションの為に他者がそれを認識できるようにカタチを与えることであると同時に、自分自身に対してもそれが認識できるように客観化することである。表現とは特別な活動のことではなく、人間がきちんと自分自身を捉えていくための健全な精神活動のために必要不可欠な活動なのである。
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絵を描きたい、表現したい、という欲求は、この意味で言うなら、某か人に伝えたいことがある、という気持が根底にあることになる。勿論、そのような気持から制作された作品も数多くある。しかし、実際には必ずしも何かを人に伝えたいから絵を描きたいという動機で絵を習い始める人は少ないのではないか、むしろ、絵を描くことそのものへの興味、関心が動機になっているように思う。
何かの目的(他者とのコミュニケーション)のための手段としての表現ではなく、そのものが目的である「表現」活動。いかなる目的もない、ただただそれがやりたい。こうした気持こそが「表現」に対する人間の根本的な欲求の在り方なのではないだろうか。
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「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。」(yahoo辞書:「大辞泉」より)
人間には心の中にあることを、心の中にあるがままにはしておけない欲求があるのではないだろうか。それは食欲や性欲と同じように人間の本質的な欲求である。生物を生物として存在させるために食欲がある。その生物が個体の死をもって消滅してしまうのではなく世代を超えて生き延びていく為に性欲がある。
それが存在し、存在しつづけるための基本的な欲求、表現の欲求もこうした欲求の部類に入ると私は考える。人間が人間であるためには表現欲という欲求が不可欠なのである。
心に思ったことを行動に移したり、カタチにしていくことを全て「表現」と言って良いのか。例えばカエルが虫を捕食する、これをもってカエルが何かを「表現」したと言えるだろうか。蜘蛛が巣を作るのを、人間が作品を作るのと同じように「表現」行為と言う事ができるだろうか。私はこうした事例は表現とは呼べないと考える。再び辞書の解釈に戻ると「外面的、感性的形象として『客観化』することと」とある。表現とはただ行動やカタチにすれば良いのではない。「客観化」したいという意志による行為か否か(無意識の場合も含め)、それが表現か否かを分けるポイントである。
では「客観化」とはどういうことであるのか。「視る人がいる」ということを前提とし、そして「視た人が何かを感じ、考えるだろう」ということを意識しているということ、それが客観化である。カエルが虫を捕食しようとするのは生理に従ったまでであり、そこにその行為を視る他人の眼、他人の心が意識されているわけではない。蜘蛛が巣を作ることとて同じである。彼らには「客観化」の意識はない。
人間も何かを食べるし巣(家)も作る。しかし、カエルや蜘蛛と決定に異なるのは人間には、その活動を視る人の眼、視る人の心に対する意識が常にあるといこと。ただし、全ての活動、営みにおいて等しく他人の眼や心が意識されているかというとそうでもない。何気なく、あるいは無意識に行われる行為、日常的なルーチンな行為などほとんどそうした意識がないことも少なくない。反対に人に何かを伝えたいという時にはその人の心にどう伝わるのかということがこの上なく意識される。その行為が「表現」であるか否か、勿論行為の内容にも関係しないわけではないが、むしろその行為をする人に、それを視る人の眼、視る人の心に対する意識があるのかないのか、あるいはその意識の強度はどうなのか、ということが表現と表現でない活動を分けるポイントになるのだと私は考える。
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