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Yama_Blog

デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。

2012年1月23日

 作品の素材を自ら積極的に求め歩くことはない、むこうからやってきたものを素材にして作品が出来ていく。作品をつくる時には、何を表現しようとか、どんな作品にしようとかということは考えない。時間によって変化した素材のあるがままの表情を活かしたい…。
 作家のそんな話を聞きながら、最近読んだある本に書いてあったことを思い出していた。世界の様々な創世神話には3つの性格がある。それは「なる」と「うむ」と「つくる」である。「つくる」というのは旧約聖書のように唯一絶対神がすること。日本の神話にはその発想はなく、すべては「なる」か「うむ」によって生じている、というようなこと。私の解釈だが、何かを「作る」ということは人為人工の話。まず主体が存在し、その主体による意志、何らかの目的、意図を実現すべく、しかるべき技法を用い、しかるべきプロセスによってモノを生じさせること。これに対し「なる」とは、いわば自然現象の在り方。自然には心も意志もない。何か目的や意味があってものを生じさせるわけではない。ただただそこにあるもの、そこに働く力、作用によって自ずから生じたもの。
 こんなことを思い出しながら、作家の話を伺っていると、はたして、この作家の手によって生じた、このモノたちは、果たして「作られた」ものといえるものなのだろうか、「作品」と呼んでよいものなのか、そんな戸惑いを覚えた。それらの作品のそのような出自はむしろ「なった」と表現するのがふさわしいのかもしれない。
 「作る」とは人間にのみ許された活動である。どんなモノであれ、人間はそれが現れることで変わるであろう未来を想像しながら作る。そのものがもたらす未来を信じ、期待に胸をふくらませながら人間は何かを作りつづけている。それが人間としてのアイデンティティであり、人間としての尊厳である。その意味で作品は、どんな作品であれ、どのような作者の意図によって作られたものであれ必ず未来へ向けられたものである。このことに違いはない。山本氏の作品の在り方や制作においてもそれは変わらない。しかし、それにしても私がその一連の作品から感じるものを一言で言うなら「過去」である。その過去とは思い出とか、郷愁とか、そういった意味合いの過去ではない。素材が選ばれ、今こうして展示されているその姿になるまでの時間、という意味合いでの過去。「選ぶ」「バラす」「並べる」「つり下げる」「組み合わせる」「破く」「貼る」等々。作品の佇まいのうちに自ずと醸し出される、作家と素材が関わったそれらの行為とそれを包みこむ時の流れ。そして作品の誕生の瞬間。 
 「つくる」とは、何もしなければ眼に見えない、耳に聞こえない、心の中に潜む想いにカタチを与え、眼に見えるように、耳に聴こえるようにすること。心の中に浮かんだビジョン、それを行動に移し、道具や材料といったモノと関わりながら、世界に働きかけていく。できあがったモノは、ある意味では、作り手の心にあるものを運ぶ器にすぎない、という言い方もできる。こんな言い回しをするとなにか特別なものの在り方に聴こえるかもしれないが、決してそうではない。普通のモノの在り方である。モノとは、それが何らかの目的のために作られたのならば、そういうものなのである。しかしここにそれとは真逆のプロセスによって生み出されたモノ、存在するモノがある。「なる」もの。世界の中に在る。そこで出会う様々なモノ。特に意図があるわけでなく、ただただそれらのモノに触発され、それらが道具となり材料となり、何かがカタチをなしていく…その営み、行為を通じ自ずと何かが感じられる、それらが積み重なって心になっていく、想いが芽生える…。意図や目的の束縛を受けないイマジネーションは自由に羽ばたく。山本氏の作品とはそのように「なる」ものなのだろう。
 以前は絵画を制作していたころ、今とは違い材料や道具そしてテーマを積極的に求めていた。しかしその中で「自分の作品」「自分のすべきこと」という手応えが得られなかったという。今のように、素材や技法に対し、ある意味受け身な今の制作のほうが、自分らしさを模索していけるとのこと。
 果たして私の手は意志をもつのだろうか。私の手は未来を考えるのだろうか。私の眼は?耳は?未来に向けて何かを発信しようとするだろうか。知性は未来をイメージする。今ここのことではない世界をイメージできるということは、今ここにある現実ではないことをイメージできるということ。それはすなわち噓をつけるということ。虚構を作ることができるということ(世界についても自分に対しても)。そして人間である以上、こうした噓、虚構を切り離して存在することはできない。信じることも、夢見ることも、つまりはそこから生まれてくるものなのだ。しかし、それでもなお。人間は「ありのまま」「あるがまま」の自分との出会いを夢想する。透視図の消失点のように、どこまで近づいても触れることはできないとわかっていても。
 私ごとであるが、以前「誰カガ私ヲ作ッタヨウニ、私モ何カヲ作ロウト想ッタ」というタイトルの個展をしたことがある。シルクスクリーンでドーナツ型の模様をちりばめた布を宇宙と見立て、その布が材料となっていろいろな作品が生まれてくる。その中心にはその布を使い、私自身の身体から型紙をおこして作った私の等身大の縫いぐるみがある、というものである。今から思うと、我ながら理屈っぽいなあと思うが、それでも、その制作を通じ、私はさまざまにモノが生じるということ、そして自分が存在することへの想いを馳せた。
 私のこの極めてコンセプチュアルな個展と、山本氏の何も考えらしい考えをもたずに臨む制作。表現の在り方としては真逆である。しかしそれは、意図的か無意識かの違いだけであり、自らの存在の消失点にたどりつこうとする営みであるという点で全く同じものだったのではないだろうか、私にそんなふうに感じられる。強く。
 私の手が、私の眼が、その届く範囲にある素材によって、その赴くままに何かを生み出して行く。その作品が「なる」ように私も「なり」、その作品の「在る」ように、私も存在する。そしてその作品のように世界と関わりを持つ。その作品を生じさせたその同じ世界に私も生まれ、作品が生まれた「今」「ここ」は、作品とともに私がもう一度生まれるための「今」「ここ」だったんじゃないかと。作家と作品の関係、作家が作品を作り続けることの根源にあるもの。そんな想いに誘ってくれた山本氏の展覧会であった。
 

展覧会は2月5日(日)まで

名古屋市東区葵2-3-4三光ビル1F

ギャラリー フィール アート ゼロ

http://www.life-deco.net/
(アドレスをクリックするとギャラリーのホームページにリンク)。





2008年10月11日
NHKで視た鑑賞法ということを書いていてもうひとつ思い出したことがある。

まったく絵画鑑賞に興味のない人にすこしでも興味をもって鑑賞してもらう方法ということで紹介されたものである。それは「もし買うとしたらどの絵にするか選んでください」と言って鑑賞してもらうというものであった。大部以前に視た番組なので細かい反応までは覚えていないが 、最初に、ただ漫然と鑑賞していたのと比べると、かなり絵について好き嫌いや、欲しい理由などについて語れる、そんな鑑賞に仕方に変わっていた。

私にも似たような経験がある。学生時代は、美術館や画廊に行っては自分の作品制作の参考になるところはないか、どんな技法をつかっているんだろうか、とそんな視方で人の作品を視ていた。他に作品の鑑賞の仕方があるなどと想いもしなかった。社会人になって、給料をもらうようにると、人の作品を買うのも良いかも、と思うようになった。「買うとしたら」「自分の部屋に飾るとしたら」、今までは考えたこともなかったような気持ちでの作品鑑賞。そんな気持ちで画廊に行くと、不思議なことに何となく作品の見え方が違ってくるのである。いろいろあるので書ききれないが、例えば仕上げの丁寧さなどというが気になったのも「買うとしたら」と思って鑑賞したことと無関係ではない。「飾るとしたら」と考えると自分の志向する画風より、例えばもっと飾り映えのするものはどうだろうか、と今までは気にも留めなかったような作品にも興味がでてきたものである。本当に問題意識ひとつ違うだけで見え方が変わってくるというのは不思議で面白いものである。また、「その値段だったらもう少し足せば欲しかったギターが買えるではないか」などと、他のものと比べる、などという考えも浮かんできたには自分でも驚い た。そうするとこれまで自分の作品を買ってくれた人は、その金額で他にも何か買えるかもしれなかったのに「私の作品を選んでくれたんだなあ」とある種の感 慨が浮かんできたりもした。

「○○するんだったらどの作品」。買うんだったら、飾るんだったら、あの人にプレゼントするんだったら…みなさんもいろいろ想定して鑑賞してみてはいかがだろうか。


2008年10月11日
鑑賞の仕方について、その2。

以前テレビで(確かNHKだったと思うが…)展覧会鑑賞の達人の鑑賞方法というのを紹介していた。恐らくご覧になったかたもいらっしゃることだろう。その、達人の鑑賞法のひとつをかいつまんでいうと、最初にざっと展覧会場を回り印象に残る作品を選ぶ、後からその作品だけをじっくり時間をかけて鑑賞する、というものである。せっかく来たのだから、と最初の一点からじっくり時間をかけて鑑賞していては、途中で集中力が途切れてしまう。限られた気力、体力、集中力、そして時間を本当に視たい作品に集中するため、それ以外の作品はすっとばしてしまう、という実に明快な方法である。作品鑑賞とは以外と集中力を必要とするものであり、また集中してみなければならないもの(先の投稿で述べた通り)。また、会場をざっと眺めじっくり鑑賞すべき作品とそうでない作品を見分けるという経験を積んで、作品を瞬時に判断する直感を養うのも大切なことである。じっくり鑑賞しなければ良さはわからない。というのも確かに正論である。しかし、良い作品は遠目であっても、通り過ぎざまであっても、訴求してくる魅力というものを持っている。それを嗅ぎ分ける臭覚を養っておくと、鑑賞のみならず、自身の作品制作にも大いに役に立つ。以前も述べたが絵画制作に費やす労力の半分以上は「視る」ことに費やしているのである。漠然と視るのではなく、しっかりした目的意識を持ちしっかり感じ、考えながら視る。鑑賞と制作は異なる活動のように視えて、実はとても近い能力を使っている。自らが描いている作品のように他人の作品を鑑賞し、他人の作品のように客観的に自らの作品を視ながらどう描いていくかを探る。実際に描くか描かないかの違いだけなのである。


2008年10月10日
先に投稿した「レコーディングダイエットをヒントに」の中で「あるがままと対峙する」ということを述べた。その関連でひとつ、鑑賞について述べたい。

時々「美術作品とはどのように鑑賞したらよいのですか」という質問を受ける。その人の様子、状況によって私の答えは違ってくる。これが正しいなどという鑑賞法はない。と同時に問題意識に応じていくつもの鑑賞法がある、と言える。しかしいかなる鑑賞法であっても、作品の「あるがままと対峙する」 ことは大切なこと。

そんな想いからこんなアドバイスをすることがある。「鑑賞法を求めている時点で真の鑑賞からかけはなれていくのです」。

何かの方法に捕われると、その方法に依存した視方しかしなくなる。つまり作品の「あるがままと対峙する」ことをしなくなるのである。
人間はとかくはやく「わかりたい」と思うもの。作品を視たらその場で何か「判った」という感触を得たい、と思う気持ちは誰にでもあり、その為に、鑑賞の技術、ノウハウがあれば教えてほしいと思うのだろう。しかし、「わかる」ということを早急に求めすぎてはいけない。高温火傷のようにその場での衝撃は大きいが早く治るものがあれば、低温火傷のようにじわじわときて治りにくいものもある。作品との出会いにも似たようなところがある。会場では「面白い」と思ったのに意外と速く忘れ去ってしまう作品がある。逆に何日も忘れられない作品がある、何日かして突然思い出す作品がある。

反芻するたびに新たな想いが湧いてくる作品との出会いもある。意識には上っていなくとも、その奥のほうで、その作品について熟成されていく想いが、確かにある。私は、それはとてもとても大切なことだと思っている。作品のあるがままを、視て、視て、視つくす。全てを受け入れそのありのままを心に刻む。言葉にすると大袈裟だがそのような姿勢をもって作品に対峙する経験は必ず必要である。何故か。

作品は作者によってそのよう作られたものだからである。作者が作品制作の過程の中で作品を視ることに費やした精神力は並大抵の量ではない。作品制作、とかく描く行為がクローズアップされるが、ある意味「視る」ということにその何倍もの精神力が使われている。作者は作品の制作途中のあるがままを受け入れ、ながらその作品をどのように育んでいくべきか感じ、考えてきたのである。そうした作られたものを、そうのように鑑賞することは鑑賞の要中の要であると、私は考える。作者が制作の間中、問いかけてきたことを、一朝一夕でわかる鑑賞法などあり得ないのだ。

ただ、ここで述べたようなことを本当に実践していたらいくら時間があっても足りない、実際には限られた時間の中で効率的に鑑賞する技術を知りたいと考えるのはわからないでもない。しかし、いかなる鑑賞法による場合であっても、ここに述べたようなことを念頭においてほしい。本当に大切な人、大切なものとは「技術やノウハウ」で付き合うわけではないということ。


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