Yama_Blog
デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。
2008年4月1日
模写、通常は模範とする作品を観察しながらその通りに作品を描いていくことである。細かなところから大きなところまでしっかりと観察しなければ、その曖昧さはてきめんに作品に表れる。これまで「言葉による模写」で述べてき視方よりも更に厳密な視方が求められるのである。しかしこのシリーズの冒頭にも述べた通り、この講義の対象となるのは絵を専門とする学生ではない。そこまでの厳密さは求めないし、また時間もない。それでもこれだけの精神力を持って作品を鑑賞したことはかつてなかったであろう。文章の内容もさることながら、その経験自体が大切なのだ。言葉による模写を終えた直後、ひとりの受講生からこんな言葉を聴いた。「こんなに集中して作品を見たことはない、この絵は十年経っても忘れないと思う」。それほど深く心に刻んだ実感があったのだ。
さて、言葉による模写が終わっても、この講義はまだ終りではない。次の作業がある。 他の人の書いた文章のみを頼りに作品を再現するのだ。結論から言うと、絵の出来、不出来よりもこの経験そのものに意味がある。ただ何となく描くのではない。そこには「何をどう描くか」ということを指し示す文章がある。勿論作家が自分の作品として制作し、発表するものであるなら、「何をどう描くか」ということは自分で決めていかなければならない。しかしここで求めるのはそういうことではない。例え、人の作品における「何をどう描くか」であっても、そうした指針を念頭に、はっきりした目標をもって制作に臨む経験が重要なのである。経験の浅い者にあっては、そうした指針、目標をもって制作に臨むということが、経験者が考える以上に難しいこと。もし単に「絵を描きましょう」という課題を与えたとしたら、明確に指針や目標を見定められないままに、「なんとなく」「よくわからないまま」進めて行ってしまう可能性は大いにある。それに比べれば、例え人から与えられた指針、目標であっても、それをしっかりと持ちながら制作するという経験は、今後自身の作品を制作する際にも「制作するということはそういうことなのだ」というイメージとして活かされていくと私は信じているのである。冒頭にも書いたが、今回の受講生はプロダクトデザインを専門とする学生である。絵画という分野以上に意識的に作品と言葉を結びつけて行かなければならない世界。造形と言葉を積極的に結びつけたこの経験が、なんらかのカタチでこれからの彼らの学習に活かされていくだろうと考えている。絵画、プロダクトの違いはあれど、造形の専門家として一人前になるためには、言葉によって発想するのと同じように、造形によって発想することができなければならないのである。
おわり。
さて、言葉による模写が終わっても、この講義はまだ終りではない。次の作業がある。 他の人の書いた文章のみを頼りに作品を再現するのだ。結論から言うと、絵の出来、不出来よりもこの経験そのものに意味がある。ただ何となく描くのではない。そこには「何をどう描くか」ということを指し示す文章がある。勿論作家が自分の作品として制作し、発表するものであるなら、「何をどう描くか」ということは自分で決めていかなければならない。しかしここで求めるのはそういうことではない。例え、人の作品における「何をどう描くか」であっても、そうした指針を念頭に、はっきりした目標をもって制作に臨む経験が重要なのである。経験の浅い者にあっては、そうした指針、目標をもって制作に臨むということが、経験者が考える以上に難しいこと。もし単に「絵を描きましょう」という課題を与えたとしたら、明確に指針や目標を見定められないままに、「なんとなく」「よくわからないまま」進めて行ってしまう可能性は大いにある。それに比べれば、例え人から与えられた指針、目標であっても、それをしっかりと持ちながら制作するという経験は、今後自身の作品を制作する際にも「制作するということはそういうことなのだ」というイメージとして活かされていくと私は信じているのである。冒頭にも書いたが、今回の受講生はプロダクトデザインを専門とする学生である。絵画という分野以上に意識的に作品と言葉を結びつけて行かなければならない世界。造形と言葉を積極的に結びつけたこの経験が、なんらかのカタチでこれからの彼らの学習に活かされていくだろうと考えている。絵画、プロダクトの違いはあれど、造形の専門家として一人前になるためには、言葉によって発想するのと同じように、造形によって発想することができなければならないのである。
おわり。
関連タグ言葉で模写する
2008年3月30日
作品に託された作者の想い、それは造形の表情となって表れる。一本の線、ひとつの筆致の表情にまで作者の想いは込められている。その総体として作品はある。「想いを込める」というのも難しい表現である。どんな想いをどのように込めるのか、それは作家それぞれである。そして鑑賞者がそれをどう読み取れば良いのかということも一言でいうことはできない。しかし、確かなことがひとつある。作家が、その一本の線、ひとつの筆致の表情をその眼で視て、味わって「良し」とした、という事実である。その「良し」の一言も作家の想いなのである。それはほとんどの場合、その線を描いたその瞬間の判断である。例えるなら、何かを口にして「美味い、不味い」と瞬間に判断するようなものである。そんな瞬間の判断ではあるが、行っているのである。「なんとなく」「何でも良い」「無頓着」で画面の上に置かれたものなど、ないと言ってよい。例え作家がなんとなく描いているように見えたとしても、本人が「いやあ、なんとなく描いてますよ」と言ったとしても。作家自身が「なんとなく」と思うほどにその吟味が自然に行われているのだ、と思って間違いない。勿論制作中は様々な判断を迫られる。瞬間の吟味では片付けられず、熟慮され、試行錯誤された結果として求められた「良し」もいくらでもある。そのように作品とは作家によって「良し」と思われたものの総体である。そのこと自体が、作品に作者の想いが込められているということなのである。
制作にしろ、鑑賞にしろ、造形体験のスタートは視ること、しっかりと心を動かして視ることである。作者の生涯やその作品の時代的背景、美術史上の位置づけ等、いろんなことを知って鑑賞するのも意義深いものである。しかし、それで終わってしまっては、目の前の一人の人間を、年齢、性別、その生い立ちや職業、家族構成といった周辺情報からのみ判断するのと同じである。本当にその人のことを知ろうとするなら、眼前にあるそのあるがままを見、聴き、積極的に会話していく必要がある。同じことである。造形のそのありのまま、作者に「良し」とされたそのありのままの表情を見る、味わう。ひとつ筆致、ひとつ色の表情から、全体の構図、色彩の構成、どのような省略やデフォルメがなされているか、どんな造形的特徴があるか。それに注目する、意識的に味わう、味わったものを自分に言い聞かせる。その道具として言葉の力を利用したのが「言葉による模写」である。だからその言葉によって書かれるのは決して感想文ではない。ありのままの造形についての描写である。集中力のいる作業である。しかし作家はそれ以上の集中力をもってその作品を制作したのである。それをしっかりと味わうために集中力が必要なのは当たり前なのである。
すべての鑑賞活動がそうあらねばならないか。その必要はない。そこまでしようと思える作品に出会ったのでなければしなくて良い。「プロの鑑賞術」を紹介する番組を視たことがある。一般の人は展覧会に展示されたひとつひとつの作品を丁寧に鑑賞していく。しかしプロはまず、ざっと会場を回って「これは」と思える作品を探し、後からじっくり鑑賞するのである。鑑賞とは精神力のいること。だから精神力を効率的に使っているのである。「これは」と思える作品にどうやったら出会えるか、ということは一言で言えるものではない。また別の機会に述べるとする。
つづく。
制作にしろ、鑑賞にしろ、造形体験のスタートは視ること、しっかりと心を動かして視ることである。作者の生涯やその作品の時代的背景、美術史上の位置づけ等、いろんなことを知って鑑賞するのも意義深いものである。しかし、それで終わってしまっては、目の前の一人の人間を、年齢、性別、その生い立ちや職業、家族構成といった周辺情報からのみ判断するのと同じである。本当にその人のことを知ろうとするなら、眼前にあるそのあるがままを見、聴き、積極的に会話していく必要がある。同じことである。造形のそのありのまま、作者に「良し」とされたそのありのままの表情を見る、味わう。ひとつ筆致、ひとつ色の表情から、全体の構図、色彩の構成、どのような省略やデフォルメがなされているか、どんな造形的特徴があるか。それに注目する、意識的に味わう、味わったものを自分に言い聞かせる。その道具として言葉の力を利用したのが「言葉による模写」である。だからその言葉によって書かれるのは決して感想文ではない。ありのままの造形についての描写である。集中力のいる作業である。しかし作家はそれ以上の集中力をもってその作品を制作したのである。それをしっかりと味わうために集中力が必要なのは当たり前なのである。
すべての鑑賞活動がそうあらねばならないか。その必要はない。そこまでしようと思える作品に出会ったのでなければしなくて良い。「プロの鑑賞術」を紹介する番組を視たことがある。一般の人は展覧会に展示されたひとつひとつの作品を丁寧に鑑賞していく。しかしプロはまず、ざっと会場を回って「これは」と思える作品を探し、後からじっくり鑑賞するのである。鑑賞とは精神力のいること。だから精神力を効率的に使っているのである。「これは」と思える作品にどうやったら出会えるか、ということは一言で言えるものではない。また別の機会に述べるとする。
つづく。
関連タグ言葉で模写する
2008年3月28日
私は言葉の力を信じている。言葉には物事をはっきりさせる力がある。言葉には物事を心に刻む力がある。人間は言葉という道具を使って世界を切り開いてきた。言葉が人間を不幸に導いたこともあったであろう。しかし言葉が幸せをもたらしてくれたのもまた事実。人間である以上、心と言葉は密接に繋がっている。感性に重きをおく芸術表現であっても、感性だけでその作品が生み出されたのではない。また感性によって受け取った作品がただ感性の事柄として処理されていくのでもない。
「作品が全てだ、言葉は不要」という考え方には、(場合によるが)私は大いに納得している。絵は言葉の代用品ではない。言葉も絵の代用品ではない。言葉では表現できないことをするのが絵である。絵で表現しきれなかったものを言葉で補うことはできない。 しかしだからと言って作品の着想、制作、鑑賞と言った作品にまつわるあらゆる場面から言葉を排除すべきだと言うのではない。言葉が万能だとも思わないが、要は言葉との付き合い方である。
列車の安全な運行のために、 運転士が「○○よ〜し、○○よ〜し」と、注意すべき点を言葉にして確認しているのを見かけたことがあるだろう。別に言葉にしなくとも、頭の中でわかっていれば済む話なのに。しかし頭の中にはいろいろなことが詰まっており、それらに注意が紛れてしまうこともある。「ぼ〜」としてしまうこともある。これに対し言葉にすることで気持ちの向き具合が先鋭化するし、自分に言い聞かせることになる。自分の気持ちをはっきりと確認することになる。このことと、私がこれまでにも提唱してきた心を動かしながら視るという、私には無関係に思われないのである。
鑑賞はまず、味わうこと、理屈ではない、言葉でもない。心の味覚を最大限に活かして 味わうこと。感性が手動して行うことである。しかし、作品とは単に眼の快感に奉仕するだけのために描いたものではないし、そのようにだけ味わわれるものでもない。作家が意識的にする、しないに関わらず、そこには作家の想いが込められる。想いとはただ「何を描いたか」というところにのみ託されるのではない。どのように描いたか。同じバラの花を描いた作品であっても、それがどのように描かれているかの違いによって、それぞれ異なる作者の想いを伺うことができる。バラを描く作家の想いがみな同じなわけではないのだから、むしろその描きぶりに注目することが鑑賞においては重要な問題となる。バラの描かれた絵を「バラが描かれている絵」と言葉で表現することはごく自然なことである。しかし「バラが描かれた絵を見た」で言い尽くされてしまうような鑑賞であってはならない。以前も書いたように、言葉には物事を「概ね」「だいたい」で捉える力があり、人間もともするとそれで物事を了解してしまったつもりになってしまう傾向がある。それで「鑑賞」としてしまうのだとしたら、鑑賞においてそうした言葉との付き合い方は間違っている。むしろ、物事をはっきりさせる言葉の力など排して、得体の知れないはっきりしないものとして捉えたほうが余程、ありのままに注目することになる。得体の知れないものほど注意して観察するのは人間の本能である。
つづく。
「作品が全てだ、言葉は不要」という考え方には、(場合によるが)私は大いに納得している。絵は言葉の代用品ではない。言葉も絵の代用品ではない。言葉では表現できないことをするのが絵である。絵で表現しきれなかったものを言葉で補うことはできない。 しかしだからと言って作品の着想、制作、鑑賞と言った作品にまつわるあらゆる場面から言葉を排除すべきだと言うのではない。言葉が万能だとも思わないが、要は言葉との付き合い方である。
列車の安全な運行のために、 運転士が「○○よ〜し、○○よ〜し」と、注意すべき点を言葉にして確認しているのを見かけたことがあるだろう。別に言葉にしなくとも、頭の中でわかっていれば済む話なのに。しかし頭の中にはいろいろなことが詰まっており、それらに注意が紛れてしまうこともある。「ぼ〜」としてしまうこともある。これに対し言葉にすることで気持ちの向き具合が先鋭化するし、自分に言い聞かせることになる。自分の気持ちをはっきりと確認することになる。このことと、私がこれまでにも提唱してきた心を動かしながら視るという、私には無関係に思われないのである。
鑑賞はまず、味わうこと、理屈ではない、言葉でもない。心の味覚を最大限に活かして 味わうこと。感性が手動して行うことである。しかし、作品とは単に眼の快感に奉仕するだけのために描いたものではないし、そのようにだけ味わわれるものでもない。作家が意識的にする、しないに関わらず、そこには作家の想いが込められる。想いとはただ「何を描いたか」というところにのみ託されるのではない。どのように描いたか。同じバラの花を描いた作品であっても、それがどのように描かれているかの違いによって、それぞれ異なる作者の想いを伺うことができる。バラを描く作家の想いがみな同じなわけではないのだから、むしろその描きぶりに注目することが鑑賞においては重要な問題となる。バラの描かれた絵を「バラが描かれている絵」と言葉で表現することはごく自然なことである。しかし「バラが描かれた絵を見た」で言い尽くされてしまうような鑑賞であってはならない。以前も書いたように、言葉には物事を「概ね」「だいたい」で捉える力があり、人間もともするとそれで物事を了解してしまったつもりになってしまう傾向がある。それで「鑑賞」としてしまうのだとしたら、鑑賞においてそうした言葉との付き合い方は間違っている。むしろ、物事をはっきりさせる言葉の力など排して、得体の知れないはっきりしないものとして捉えたほうが余程、ありのままに注目することになる。得体の知れないものほど注意して観察するのは人間の本能である。
つづく。
関連タグ言葉で模写する
2008年3月25日
私はかつてこんな授業をしたことがある。三日間を3人の講師が担当するオムニバス形式の講義。一日ごとに講師が入れ替わり、デザインや工芸、絵画等それぞれの専門分野について紹介するという内容である。当然ながら私は「絵画」を担当した。受講生はプロダクトデザイン専攻の学生で、絵画は専門分野ではない。果たして9時30分から17時、昼休み等を抜いた6時間強の時間で何ができるだろうか、伝えられるであろうか。
他の教員は、自分の作品紹介を中心にそれぞれの分野について語るとのこと。私にもその方法は可能であった。しかし直感的にそれはしたくないと思った。私を紹介するのではない、絵画を紹介するのが目的なのだ。勿論「私の作品を通じて…」というやり方もあるだろうが、 私固有の考え方、教養として一般的な絵画について述べることは、ともすると焦点のボケた判りずらいものになる恐れがある。もうひとつに、受講生にとって、ただ聴くだけの授業にしたくなかったということもある。これまた直感的に「言葉で模写させよう」という発想が閃いた。考えに考えたあげくの結論ではないので、何故そういう発想になったのか自分自身でもよくわからない。ただ理由はないのに確信はあった。
おそらくどの学生も見たことがないと思われる作品の図版を学生の数だけ用意した。それを各学生に一枚ずつ渡し、課題の内容を伝えた。課題の内容は次のとおり。
「もしあなたが今手元にある作品を模写しようとしたなら、いろんなことに注意を向けると思います。何が描いてあるか、どんな大きさで画面の何処に配されているか、どんな色でどんな塗り方をされているか等々。より正確に模写しようとするならそうした観察もより丁寧になり、細かいところに注意を向けるなければなりせん。ただ『手が描かれている』といった視方では模写になりません。そのモノの大きさ、太さ、曲がり具合、陰影の表情等。色も単に『赤』ではダメです。どんな赤かしっかりと見定めてる必要があります。そのような視方で手元の図版を観察し、その全てを言葉で記述しなさい。言葉による模写です」
「みなさんが記述したもの、出来上がったら、他の学生と交換します。そしたらみなさんはその記述を基に、スケッチブックに絵を再現してください。勿論、基になった図版を見てはいけません」
これで講義の概要はお判りいただけると思う。 誰も見たことがないであろう作品の図版を用意したのも、言葉による記述以外のもの、過去に見た記憶が混ざってほしくないからである。ここまで読んだ方は、受講生にとっては、さぞ大変な講義だと思われるであろう。「言葉の模写」には約3時間をかけた。確かに今にして思えば大変な要求をしたものである。しかし受講生の記述した文章を見ながら「こんなところはどう記述する?」「こんな視方はしてみた?」と、会話するきっかけも多かったので、ただ黙々と作品の観察に集中しと、淡々と文章を書き続けるような息の詰まるような雰囲気ではなかった。さて、ここまで読まれて「一体何のためにそんな大変なことをさせたのだ」 とお思いかも知れない。
つづく。
他の教員は、自分の作品紹介を中心にそれぞれの分野について語るとのこと。私にもその方法は可能であった。しかし直感的にそれはしたくないと思った。私を紹介するのではない、絵画を紹介するのが目的なのだ。勿論「私の作品を通じて…」というやり方もあるだろうが、 私固有の考え方、教養として一般的な絵画について述べることは、ともすると焦点のボケた判りずらいものになる恐れがある。もうひとつに、受講生にとって、ただ聴くだけの授業にしたくなかったということもある。これまた直感的に「言葉で模写させよう」という発想が閃いた。考えに考えたあげくの結論ではないので、何故そういう発想になったのか自分自身でもよくわからない。ただ理由はないのに確信はあった。
おそらくどの学生も見たことがないと思われる作品の図版を学生の数だけ用意した。それを各学生に一枚ずつ渡し、課題の内容を伝えた。課題の内容は次のとおり。
「もしあなたが今手元にある作品を模写しようとしたなら、いろんなことに注意を向けると思います。何が描いてあるか、どんな大きさで画面の何処に配されているか、どんな色でどんな塗り方をされているか等々。より正確に模写しようとするならそうした観察もより丁寧になり、細かいところに注意を向けるなければなりせん。ただ『手が描かれている』といった視方では模写になりません。そのモノの大きさ、太さ、曲がり具合、陰影の表情等。色も単に『赤』ではダメです。どんな赤かしっかりと見定めてる必要があります。そのような視方で手元の図版を観察し、その全てを言葉で記述しなさい。言葉による模写です」
「みなさんが記述したもの、出来上がったら、他の学生と交換します。そしたらみなさんはその記述を基に、スケッチブックに絵を再現してください。勿論、基になった図版を見てはいけません」
これで講義の概要はお判りいただけると思う。 誰も見たことがないであろう作品の図版を用意したのも、言葉による記述以外のもの、過去に見た記憶が混ざってほしくないからである。ここまで読んだ方は、受講生にとっては、さぞ大変な講義だと思われるであろう。「言葉の模写」には約3時間をかけた。確かに今にして思えば大変な要求をしたものである。しかし受講生の記述した文章を見ながら「こんなところはどう記述する?」「こんな視方はしてみた?」と、会話するきっかけも多かったので、ただ黙々と作品の観察に集中しと、淡々と文章を書き続けるような息の詰まるような雰囲気ではなかった。さて、ここまで読まれて「一体何のためにそんな大変なことをさせたのだ」 とお思いかも知れない。
つづく。
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