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Yama_Blog

デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。

2008年3月10日
では、美術は何なのだ。美術はまさに「問う」実践の場である。美術は頭の中だけでは解決しない。具体的な材料を使って、具体的に自分の心と身体を使って、具体的なモノを作り上げる「具体的」な活動である。まさに「その時、その場、私」が具体的に生きている瞬間。それを体験する場は、実際他にもある。それぞれの人が、自分が生きている瞬間を感じられる場を探せば良い。しかし美術はそのあまりの自由度の大きさ故、そこに取り組む人の在り様が赤ら様になる。自分を見つめるにはかなり有効な活動だと思う。「普遍的真理」とは、状況によってゆるがないもの、変わらないもの。ある意味で美術の活動とはそれとは正反対のものを求めているようにも考えられる。その瞬間のその人在り様。しかし、普遍的真理を具体的な実生活に反映させられるように、瞬間の活動の中から普遍的真理を「問う」ことも可能なのである。

実感として、どんなに問うても「私って?」「生きるって?」「幸せって?」の答えが簡単に見つかるとは思えない。「問う」ことも無意味なのではないのか。そうではない。先に述べたとおり、問い方を手に入れることによって、問題の核心はわからないが、輪郭は感じられるようになる。私が問題に持っていることも、単なる得体の知れないものから、「大体こんなことなのね」というイメージが出来てくる。このように問題のことが少し判るということは、その問題に前向きに、能動的に取り組んで行ける気持ちに繋がるのではないか。人生の不安は解消されない、しかしそうした不安を抱えつつも前向きに、能動的に人生を送られるようになれば、それが一つの「答え」だと思う。答えは、そうやって生きながら求めつづければよい、求め続けようという気持ちを得たことが成果なのである。

人生、ということで話を進めてきたが、美術活動という範疇に絞っても同じことである。一足飛びに美術をすることの意味や何を表現するべきなのかの答えに到達することはできない。みなこうやって問い続けながら美術との付き合いを深めているのである。その付き合いの深さに応じて、作品の在り様も日常的な感覚とはかけ離れたものとなり、またある深いレベルに達したからと言って、他の人が達したその人固有のレベルのものが簡単に理解できないということにもなるのである。

これが私の「美術が何故難解に思われるのか」ということについてのひとつの見解である。ならばその難解なものを通じたコミュニケーションは不可能なのか。個人のスポーツ選手が追い求めているもの、その心の内はわからない。しかしその選手のプレーをみて人は感動する。マラソンをしない人であっても、走り続ける選手の姿に感銘を受けたり、生きる力をもらった気持ちになったりする。分野の違いを超えて、何かをも求める姿勢、その中で培ったものを目の当たりにすれば人は心動かされるものである。また例えひとそれぞれ求めているものが異なり、その時点で到達している場は違うとは言え、同じ人間が考えて、行動すること。どんなに個人的な物事の中であっても人々と共感できる可能性は大いに秘められているのである。

美術を、他の活動と異なる固有のものとして捉えることによって得られるものもある。しかし、もう一方で「美術とはかくあるもの」という、既成概念を取り払い、一人の人間と向き合い、対話する気持ちで作品に臨む姿勢によって得られる理解、共感というものがある。
おわり。


2008年3月8日
「余談」ではあるが前段を述べたのは、例えばそのような状況もあって、また類推すれば他にも様々な要因があって、「個性を表現する」というたった一言が実はとても複雑な問題なのだということを言いたいのである。社会的歴史的な様々な要因があって複雑なのである。それ以前に人間が人間になった時点で複雑なのである。つまり美術という範疇でのみ人間が複雑なのではない。美術は、例えば絵画は、画面の上に色や形をあれこれするだけの、他の色々な活動に比べるなら極めて単純無垢行為である。無垢であるが故に、その純粋さ故に極めて鮮明にその人を映す鏡となる。人間の複雑さがそのまま映される。それを見て美術が複雑、難解だという印象を持たれる。そういうことなのである。
人間の日常の生活で、人のことを考える、自分のことを考える場合、ある程度の深さ以上を追究することについては無意識にではあるがブレーキがかかる。日常がつつがなく、スムースに運べる範囲で止まるようにするブレーキ。いちいちとことん追究しようとすれば日常的な精神生活に支障を来す。それを無意識に防いでいるのである。前述のような経済の問題の中での人間の在り様など考えることもできるが、経済学者や経済評論家でもない一般の人にとっては「日常的な」というより、「一歩踏み込んで考えた時」という内容ではないだろうか。つまり、人間が人間について感じ、考えるのにも「日常的レベル」と「日常以上の深さのレベル」があるということ。少なくとも「日常レベル」の捉え方で臨むならば、「日常以上の深さのレベル」を表現しようとする表現は難解なものに映ることであろう。
自分というものも含め人間を深く見据えようとするならば、やはり「日常的レベル」の捉え方では済まなくなってくる。これは「日常以上の深さのレベル」のものを誰かが無理に作り上げ人に押し付けようというものなのではない。誰しも生きている中で漠然とした想い。「私って?」「生きるって?」「幸せって?」。日常つつがなく生活しているレベルの捉え方ではその答えは見つからない。「少し深く考えてみよう」そんな時が誰しもあるはず。「日常以上の深さのレベル」に足を踏み入れることになる。必然である。
考えるとは何かを通じて考えることである。自分の頭の中だけでは堂々巡りとなり、なかなか「何かに行き着いた」感が得られない。宗教、哲学、科学。そうしたものを通じて考えるというのは、ひとつの正しい判断である。ただし気をつけなければならない。これらが追究するのは、基本的には「普遍的真理」である。その普遍的真理に依存すれば万事解決するわけではないのである。その普遍的真理を如何に咀嚼し、その人自身が具体的に生きるその瞬間瞬間にどう判断しどう行動ていくかということ、自分自身の問題として還元されなければ、意味がない。つまり、普遍的真理を「答え」するのではなく、自身の人生に発するべき「問い」と捉えるべきなのである。その人の人生の瞬間瞬間の全てに該当する答えなどない。答えは自分で出す、これが原則である。問題はどうやって「答え」を出すかということ。「本当にわからない」という状態は「何がわからないかもわからない」という状態である。つまり問題の全体像がとらえられない、だからどう問うていいのかが判らないということ。逆に「問い」を持てるということは、某かその問題について捉えられているということ。「問い」を持つことによって問題の輪郭のイメージができるのである。その問い方のヒントを与えてくれるのが宗教、哲学、科学なのだ。
つづく。


2008年3月6日
絵画独自の存在意義。造形面では、対象を忠実に描写する写真との対比に内に、色彩や形態が「再現」的描写から離れていくようになる。形態や色彩が作者の任意になってくる。内容面の変化。個人が自分の世界を自由に表現することが社会的評価の対象になる、という今日では当たり前のことが当たり前になった歴史は浅い。世界史でならう「市民革命」以降のことである。宗教の教義、王侯貴族による支配、社会全体がひとつの価値観に従わなければならない状況では、個の表現は重視されない。認知されない。下手すれば弾圧対象である。近代以降のことではあるが、太平洋戦時下、画家は自由な表現を奪われ、戦意高揚に資する絵画を強要されたのは、ひとつの判りやすい縮図である。近代以降、単純に言えば、個人が個人の考えたこと、感じたことを表現していんだ、認めてもらえるんだ、という意識が芽生えてきた。と同時に誰もがみな、それを描かなければいけない、描きたいと思う絶対的な価値観も消失する。これは鑑賞の仕方にも影響を与える。「こう鑑賞しなければいけない」という絶対的な価値基準はない、鑑賞の仕方そのものもその個人の個性の発揮の場だ、という状況になってきた。
さてこうした個人的な自由の獲得の裏には、同時に教会や王侯貴族それまで絵描きを支えてきた、いわゆるパトロンを失う、という状況がある。経済的な問題。それについてもいろいろな経緯はあるが、一足飛びに現代の資本主義の世の中に話を移す。宗教的な権威、王侯貴族の権威、こうしたものにとって変わって権威を獲得したもの、社会がそれを中心に動こうとするもの、それは「お金」である。「お金」という権威が近代以前の権威と決定に異なることがある。近代以前の権威は、人々にひとつの価値観を強要してきた。しかし「お金」という権威は、それが「お金」になるのならあらゆる価値観を許容するのである。個人の個人的な表現に経済的なバックボーンができたのだ。社会的、文化的に個人が重視されるなら、それに経済活動が関わらないはずがない。身の回りの商品広告が、やたらと「個性」を強調するのも当然の成りゆきなのである。
この一段落は余談ではある。個性を認めると言っても、何十億の人間のひとつひとつの個性に併せて商品は開発できない。効率的でない。特定の個性へと導くコントロールが必要となってくる。「今年はこんなものが流行しますよ」というのは「今年はこんなものを流行させよとしていますよ」を赤ら様にしない言い方なのである。様々な企業によって個性の分類が用意される。「あなたの個性はこの個性ですよ」と話かけてくる。人間にとって自分自身は最も判りにくい存在で。自分の個性を明晰に見据えているというような人はほとんどいない。何となく感じている自分の個性に合う「個性」を提示されるとそれが自分の個性だと捉えてしまう。このことを否定することはできない。人間の性(さが)である。その優柔不断さ、否柔軟性があるから人間はたくましく生きていけるのも事実。「何もかも自分じゃない」と突き詰めたなら生活に支障を来す。しかしそうした現状に無頓着で良いということでもない。自分自身の眼と感性で「自分であるということ」を見据える場を持ってもらいたい。それが私の絵画、版画指導のスタンスである。自ずと、社会的に経済的に成功するための絵画の指導とは異なったものとなる。
つづく。


2008年3月4日
美術が何故難解に思われるものになってきたのか。いろいろあるがその一つの考え方、流れを大まかにまとめてみた。
近代以前の絵画は、概ね教会がキリストや聖人の教えや、偉業を人々に広めたい、王侯貴族や裕福な商人が記念碑的に肖像画や戦歴や絵にして人々に誇りたい、出来事やお話を伝えたい、といったような情報伝達の手段として制作された(かなり大雑把な言い方だが)。そこにおいては、鑑賞とは自由に感じ、考える「生の現場」ではなかった。勿論自由な鑑賞の余地が全くないわけではないが、作品の制作意図は、やはり情報伝達、こういうことを判ってもらいたい、知ってもらいたい、というところにある。
表現の在り方としてはむしろ現代のグラフィックデザインに近いものだと言えよう。鑑賞の自由の余地はありながらも、最終的には視る人を、そこに示されている商品が欲しい、そのイベントに参加したい、という特定の結論へと誘導する情報伝達の在り方。近代以前の絵画は基本的にクライアントの依頼を受けた受注制作品、絵描きは現在のデザイナーと同様、他人の表現の代行者だったのである。また基本的には工房内での協同制作であり、今では当たり前のように考えている、個人の個性の表現の場として絵画制作がある訳ではなかった。勿論腕の良い職人を指名して仕事を依頼するということはあり、そうした職人の中の更に優れた人が歴史に名を残すことになってくる。
いずれにせよそうした絵画は、「今、まさにここ、この私が」というリアリティを伴って感じること、考えることが芽生える生の現場ではない。既にどこかで誰かが感じ、考えたことの「伝達の手段」なのである。鑑賞者にしっかりと伝達したいと考えるなら、当然、「判りやすく」表現されなければならない。内容伝達が優先であり、造形性は二の次となる。勿論、美術史に名を残す作家、作品は優れた造形性を持っている。作家自身も優れた造形の為に心血を注いでいる。鑑賞者もまたそれを期待しないはずがない。しかし、だからと言って「どうだ俺の表現は斬新で個性的だろ」と伝達内容を判りにくくしてまで、例えば王様の肖像をピカソのよう表現してまで、主張することはありえないのだ。あくまで対象を判りやすく、自然に見せるという範疇での造形性の追究であり、その意味で「造形性は二の次」なのである。
近代以降、教会や王侯貴族の権威が薄れ市民が台頭し、写真の登場や、絵画とデザインの役割分化により、絵画は絵画ならではの存在意義を模索していくことになった。
つづく。


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