Yama_Blog
デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。
作品の素材を自ら積極的に求め歩くことはない、むこうからやってきたものを素材にして作品が出来ていく。作品をつくる時には、何を表現しようとか、どんな作品にしようとかということは考えない。時間によって変化した素材のあるがままの表情を活かしたい…。
作家のそんな話を聞きながら、最近読んだある本に書いてあったことを思い出していた。世界の様々な創世神話には3つの性格がある。それは「なる」と「うむ」と「つくる」である。「つくる」というのは旧約聖書のように唯一絶対神がすること。日本の神話にはその発想はなく、すべては「なる」か「うむ」によって生じている、というようなこと。私の解釈だが、何かを「作る」ということは人為人工の話。まず主体が存在し、その主体による意志、何らかの目的、意図を実現すべく、しかるべき技法を用い、しかるべきプロセスによってモノを生じさせること。これに対し「なる」とは、いわば自然現象の在り方。自然には心も意志もない。何か目的や意味があってものを生じさせるわけではない。ただただそこにあるもの、そこに働く力、作用によって自ずから生じたもの。
こんなことを思い出しながら、作家の話を伺っていると、はたして、この作家の手によって生じた、このモノたちは、果たして「作られた」ものといえるものなのだろうか、「作品」と呼んでよいものなのか、そんな戸惑いを覚えた。それらの作品のそのような出自はむしろ「なった」と表現するのがふさわしいのかもしれない。
「作る」とは人間にのみ許された活動である。どんなモノであれ、人間はそれが現れることで変わるであろう未来を想像しながら作る。そのものがもたらす未来を信じ、期待に胸をふくらませながら人間は何かを作りつづけている。それが人間としてのアイデンティティであり、人間としての尊厳である。その意味で作品は、どんな作品であれ、どのような作者の意図によって作られたものであれ必ず未来へ向けられたものである。このことに違いはない。山本氏の作品の在り方や制作においてもそれは変わらない。しかし、それにしても私がその一連の作品から感じるものを一言で言うなら「過去」である。その過去とは思い出とか、郷愁とか、そういった意味合いの過去ではない。素材が選ばれ、今こうして展示されているその姿になるまでの時間、という意味合いでの過去。「選ぶ」「バラす」「並べる」「つり下げる」「組み合わせる」「破く」「貼る」等々。作品の佇まいのうちに自ずと醸し出される、作家と素材が関わったそれらの行為とそれを包みこむ時の流れ。そして作品の誕生の瞬間。
「つくる」とは、何もしなければ眼に見えない、耳に聞こえない、心の中に潜む想いにカタチを与え、眼に見えるように、耳に聴こえるようにすること。心の中に浮かんだビジョン、それを行動に移し、道具や材料といったモノと関わりながら、世界に働きかけていく。できあがったモノは、ある意味では、作り手の心にあるものを運ぶ器にすぎない、という言い方もできる。こんな言い回しをするとなにか特別なものの在り方に聴こえるかもしれないが、決してそうではない。普通のモノの在り方である。モノとは、それが何らかの目的のために作られたのならば、そういうものなのである。しかしここにそれとは真逆のプロセスによって生み出されたモノ、存在するモノがある。「なる」もの。世界の中に在る。そこで出会う様々なモノ。特に意図があるわけでなく、ただただそれらのモノに触発され、それらが道具となり材料となり、何かがカタチをなしていく…その営み、行為を通じ自ずと何かが感じられる、それらが積み重なって心になっていく、想いが芽生える…。意図や目的の束縛を受けないイマジネーションは自由に羽ばたく。山本氏の作品とはそのように「なる」ものなのだろう。
以前は絵画を制作していたころ、今とは違い材料や道具そしてテーマを積極的に求めていた。しかしその中で「自分の作品」「自分のすべきこと」という手応えが得られなかったという。今のように、素材や技法に対し、ある意味受け身な今の制作のほうが、自分らしさを模索していけるとのこと。
果たして私の手は意志をもつのだろうか。私の手は未来を考えるのだろうか。私の眼は?耳は?未来に向けて何かを発信しようとするだろうか。知性は未来をイメージする。今ここのことではない世界をイメージできるということは、今ここにある現実ではないことをイメージできるということ。それはすなわち噓をつけるということ。虚構を作ることができるということ(世界についても自分に対しても)。そして人間である以上、こうした噓、虚構を切り離して存在することはできない。信じることも、夢見ることも、つまりはそこから生まれてくるものなのだ。しかし、それでもなお。人間は「ありのまま」「あるがまま」の自分との出会いを夢想する。透視図の消失点のように、どこまで近づいても触れることはできないとわかっていても。
私ごとであるが、以前「誰カガ私ヲ作ッタヨウニ、私モ何カヲ作ロウト想ッタ」というタイトルの個展をしたことがある。シルクスクリーンでドーナツ型の模様をちりばめた布を宇宙と見立て、その布が材料となっていろいろな作品が生まれてくる。その中心にはその布を使い、私自身の身体から型紙をおこして作った私の等身大の縫いぐるみがある、というものである。今から思うと、我ながら理屈っぽいなあと思うが、それでも、その制作を通じ、私はさまざまにモノが生じるということ、そして自分が存在することへの想いを馳せた。
私のこの極めてコンセプチュアルな個展と、山本氏の何も考えらしい考えをもたずに臨む制作。表現の在り方としては真逆である。しかしそれは、意図的か無意識かの違いだけであり、自らの存在の消失点にたどりつこうとする営みであるという点で全く同じものだったのではないだろうか、私にそんなふうに感じられる。強く。
私の手が、私の眼が、その届く範囲にある素材によって、その赴くままに何かを生み出して行く。その作品が「なる」ように私も「なり」、その作品の「在る」ように、私も存在する。そしてその作品のように世界と関わりを持つ。その作品を生じさせたその同じ世界に私も生まれ、作品が生まれた「今」「ここ」は、作品とともに私がもう一度生まれるための「今」「ここ」だったんじゃないかと。作家と作品の関係、作家が作品を作り続けることの根源にあるもの。そんな想いに誘ってくれた山本氏の展覧会であった。
展覧会は2月5日(日)まで
名古屋市東区葵2-3-4三光ビル1F
ギャラリー フィール アート ゼロ
http://www.life-deco.net/
(アドレスをクリックするとギャラリーのホームページにリンク)。
自由とは言い換えれば可能性です。何にでもなれる可能性、なんでもできる可能性。他の動物にはない人間固有のもの。それを使って人間は発展してきました。つまり自由とは人間の尊厳そのものです。何にも束縛を受けずその自由をどこまでも羽ばたかせる、それは人間が人間であることを最大限に実現していることなのです。
と、いろいろ述べてきましたが、では私が、個々の具体的な作品について理解できるとか、現代美術を面白いと思えるかというと、それはまた別の話です。価値を知ることと楽しめることは別。その食べ物に高い栄養価があるとわかっていても不味と思えば不味い、よろこんで食べられません。「自由」大切だし、素晴らしいことだけれども、難しいことなんです。自由になるのも、本当に自由を理解することも、自由の中で何をそうするのかと判断することも。作りたい世界、自分の在り方、見据えているものがそうとうしっかりしたものでないと、自由に活動はできないのではないでしょうか。
まあアートとは鏡のようなもので、社会や人間を映し出しているわけで、本当にわかりにくいのはアートではなく人間や社会なのです。現代美術がわからないと言っている人が、ではそれ以外のことはよくわかるのか、というと世の中わからないことはいっぱいです。日常生活でそんなことをいちいち感じてはいられませんが、それは日常生活の中で人々がやたらめったら自分の内面や妄想していること、想像していることをさらけださないからです。またわかっていると思っている自分自身の中にも自分では理解できないようなものがたくさん潜んでいるのです。現代美術もこれまで述べてきたように、「わからない」と一言で片付けてしまうにはちょっと勿体ない世界ではあります。鑑賞する経験を重ね、少し本やネットなどで情報を覗いてみるとなにがしかピンとくるものに巡り会えるかもしれません。
関連タグ現代美術
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以下、本文。
現代美術もいろいろな表現内容や表現意図がありますので、一概には言えませんが、現代美術において「わかる」ということは最も大切なことではないでしょう。「わかる」というのにもいろいろな次元がありますが、「これはこうこうこういうものだよ」と説明するような「わかり方」は求めていないのではないかと思います。
現代美術に置いて「わかる」ことより大切なこと、それは「新しいイメージの提示」です。人間はどれだけいろんなことをイメージできるか、どこまでイマジネーションを羽ばたかせることができるか、という挑戦です。現代美術だけの問題ではありません。
人間はどんどん記録に挑戦していく生き物です。どれだけ速い自動車を作れるか、どれだけたくさん食べられるか、どれだけ走り続けられるか、どれだけ眠らずに過ごせるか…挙げればきりがないほど人間はいろいろなことに挑戦しています。こうした挑戦において、人に理解してもいたい気持は勿論あるでしょうが、しかし、「わかってもらうことより」何よりも重要なのは挑戦するそのものです。「人がわかってくれようが、くれまいが俺は挑戦する」ということです。人から「なんで危険な思いをして山に登るのかわからん」と言われても、「そこに山があるから」なのです。そこに「人間にはものを想像し、創造する力があるから」どれだけその能力を引き出せるかということに挑戦するのです。ただ残念なことに、アートの場合は「ええ!そんなに能力を引き出したの!!」と人にわかってもらえるような尺度がありません。「100メートルを8秒59で走ったぞ」とか「85時間眠らなかったぞ」とか、カレーライス4kgを20分で平らげた、とか数字で表せることができないのです。しかし、こういうことも言えます。数字をわかったからと言って、例えば100メートルを8秒台で走った人の感じたこと、その人にとっての価値をわかることができたか、というとそうではないということ。数字という概念(言葉的な要素)で知ることと、本当にそのことの価値や意義をわかることはまた違う次元の問題なのです。
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