Yama_Blog
デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。
アイドルを持とう
早いもので今年度が始まって半年が経ちました。今年入学されたみなさん、学習の進み具合はいかがでしょうか。絵画を学習していくことは、これまで学んできた他の学習とはかなり様子が異なり、まだまだ戸惑いも多いのではないかと思います。制作に必要な知識や技術については習うことも調べることもできます。しかし、そうした技術や知識を活用して最終的に自分が何をどう描くべきか、自分自身で模索していかなければならない、絵画を学習における戸惑いの要因になっているのではないかと思います。
以前、高等学校の美術の授業で「美術ってどういうことだと思う?」と尋ねたところ、もっとも多かったのが「自由に自分の世界を表現する」という答えでした。さてあなたは「自由に自分の世界を表現してみましょう」と言われて、「待ってました」と直ぐに取りかかれるでしょうか。
「自分の世界」とは何でしょう。先ず、そのこと自体がはっきりしません。究極の回答を述べることもできませんが、とりあえず、こんなふうに考えてみてください。「あなたの世界はあなたの関わったもの、選んだものでできている」と。自分の世界というと、ともすると自分の心の中心を深く深く探っていくようなイメージを持たれるかも知れません。勿論それも大切。しかし反対に世界と繋がっている自分に眼を向けることも自分の世界を見つめることになるのです。
特に重要なのが、アイドルを持つこと。ミュージシャンであれば、音楽の世界への第一歩は大抵、自分のアイドルとなるミュージシャンのコピーから始まるもの。コピーにあきたらなくなり、オリジナルを作り始めても、それまでコピーしてきたものが必ずベースになっています。あのビートルズも、チャック・ベリーやエルビス・プレスリーといった初期のロックンロールのスターをアイドルとし、その影響からスタートしています。シュールレアリズムの巨匠、サルバドール・ダリもフェルメールに深く傾倒し、その写実的描画の手法に影響が色濃く現れています。また、アイドルとは少し違うかも知れませんが、マネやモネ、ゴッホといった近代の画家達が日本の浮世絵に、またピカソやモジリアーニがアフリカの彫刻の多大の影響を受けそれぞれの作品に展開していったことも有名な話です。
私の世界、私の個性とは決して私だけで作っているわけではないのです。むしろ個性的な人ほど、外の世界に敏感であるとも言えます。絵画もれっきとした文化活動のひとつ。先人の築いたものの上に積み上げていくものです。作品の中の2割がオリジナルであれば、十分自分の世界だと言っても過言ではありません。良いと思うものをしっかりと吸って、咀嚼したものを自分の表現として吐き出していく。健全な身体に健全な呼吸が必要なように、健全な表現にもこうした健全な呼吸が必要なのです。あなたはどんな画家が好きですか、どんなところが好きですか、と聞かれて直ぐに答えられるように、好きな作家を見つけ出し、じっくり鑑賞するようにしてください。アイドルはすなわち目標。学習をもっとも効果的行うための明確な目標を持つこと、これは絵画の学習に限ったことではありません。逆に好きな作家が挙げられないようでは絵画の学習は必ず滞ります。このことを念頭に積極的にいろいろな作家のいろいろな作品に触れるようにしてください。
関連タグ学生に伝えてきたこと
いずれにせよ、その関心は前述のように対象を分別し、説明し、知的に理解させるところではなく、むしろデリケートで繊細、多様な面の表現にあります。そしてそれらは言わば感覚の対象となるものです。そしてそのデリケートな面の表情を描きだす筆致。近代以前の古典的な絵画と比較するなら、古典的な絵画においては鑑賞者に絵の内容を説明し、理解してもらうことが大切な役割となっていました。ひとつ例を挙げるなら宗教画、色彩や形態といった造形性を味わってもらうことが目的ではなく、あくまでキリストやキリストの偉業、キリスト教の教義を理解してもらうための媒体であることが第一義です。途中ははしょりますが、絵画を純粋に感覚の対象としその色彩を中心とする造形を味わうものへの拡張したのが印象派の功績です。その後に抽象絵画が登場する契機ともなっているのです。
さて前置きが長くなりましたが、改めて課題作品を視てみてどう感じるでしょうか。はっきりと見て取れるような強い輪郭線こそありませんが、輪郭線を想定してそこで色を塗り分けている「識別」「分別」が働いています。するとどうなるかというと筆致がその形態によって制約を受けることになります。モネの作品ではむしろ筆致は、輪郭にとらわれたり、カタチを説明するような役割から解放され、のびのびと増殖するかのように画面中を埋め尽くしています。古典的絵画では筆致はむしろノイズです、消去すべきもの。しかし、ここではその筆致こそが作者の息づかい、作者のリズムのようなものとなって生き生きと表情豊かにその存在を主張しています。まず筆致があり、その筆致がだんだんと集積し、その集積によってそれが徐々に人間の姿になってくるような制作プロセスを感じることができます。しかし課題作品では筆致はあくまでカタチの説明の道具として、例えば頭髪の形状がまずあって、それに従って筆致の在り方が決まってくるというようになっています。おそらくはじめにきちんとした下絵が描かれ、最初の段階で既に決まってしまったそのカタチを塗っていく、言わば塗り絵のような作業工程が感じられます。勿論きちんと下絵を描くことが悪いわけではありませんので、誤解のないように。ことモネなどの印象派を描く場合には最初にあまりきちんとした下絵を描かず、むしろ描きながらだんだんと人の姿が発生してくるようなプロセスで描くと良い、ということです。
勿論モネの絵も全てがカタチのないボヤっとしてものになっているわけではありません。基本はこれまで述べてきたような描き方ですが、その中で例えば顔の目鼻立ちなどは、比較的はっきりしているところもあります。このように画面の中にはっきりしているところとボヤっとしているところがあるから、強弱、メリハリの対比が生まれてくるのです。音楽でもスピーチでもドラマでもなんでもそうですが、全てが同じような強さで存在していると、鑑賞者は疲れるし、また折角のクライマックスもわかりにくいものとなっていまします。弱いところがあるから強いところをより強く感じることができるのです。そうしてみると課題作品は勿論色彩的な強弱はありますが、「説明する意識」としてはどこもが同じような存在感となり、一本調子、単調さを感じます。
面の表情を味わい深いものにしていくには、やはり絵具をもっとたくさん使ってどんどん重ねて行くことです。モネの作品では乾いては重ね、また乾かしと絵具が重層的に施され、厚みのある表情になっています。課題作品ではそのあたりの描き方のスケールが小さいです。小さな筆、少ない絵具、一層で小さく進めている感じがします。絵は勿論「描く」ものですが、「育てる」「養う」という気持ちで臨むとよいでしょう。手間をかえただけ、絵は成長し、豊かな表情を獲得し、単なる説明の媒体であることを超え、「味わう」対象となっていくのです。
関連タグ学生に伝えてきたこと
(前略)絵は「好きなものを好きなように描けば良いのだ」という人がいます。その通りだとか、それは違うとか、いろいろ意見はあるでしょう。どちらが正しいとかそういうことは別として、人間はどうすれば、好きなものを好きなように描けるようになるでしょうか。
「好きなものを好きなように描くのに、ややこしいことは必要ない、人から何か言われる筋合いもない…」という人がいるかも知れません。しかし果たしてそうでしょうか。
人間は本当に自分の好きなこと、好きなやりかたを判っているのでしょうか。いろいろと経験し、いろんなものと出会い、いろんなことを知っていく中で「何かを好きな気持ち」というのも変化し、成長していくものです。やり方についてもそうです。
また、「あんなことをしてみたい」というイメージが頭に浮かんだ時、それを作品というカタチにして満足を得るためには、そのイメージを実現できるだけの技術や方法を身につけていなければなりません。「あんなふうにしたかったのに、技術がないからこんなふうになってしまった」というは「好きなものを好きなように描いた」ことになるでしょうか。
自分の好きなものを好きなように実現していくためには、「好きなもの」に出会おうとする経験と、それを実現する力が必要なのです。初心者に向かって「好きなものを好きなように描けばいいんだよ」という指導者がいます。状況や指導意図にもよるので一概に否定はしませんが、「好きなものを好きなように描く」というのは簡単なことではない、むしろ実は最終的に到達できる境地だとも言えるのです。その力をつけるための手段、方法として、例えば「好きなものを好きなように描く」とは真逆のようなデッサンに取り組むのです。(後略)
関連タグ学生に伝えてきたこと
作品に添えられたレポートに、まさにこの課題の意図するところを組んでくれたことの感じられる一文があった。 そのことに触れながら、私がこの課題作品に対して書いた講評の一部を抜粋して紹介する。
《講評》
「作家が導いてくれる」
「作家がすでに考えてくれているので」
「普段自分でもやらないような」
「そうはいっても、自分の感情は入ってくるものだ」
レポートに書かれたこれらの感想、まさにこういうことを体験してほしくてこの課題を設定したと言えることばかりです。表面的に「個性」「オリジナリティ」「創造性」「独創性」といったこと捉え、誰も参考にすることなく自分でゼロからモノを作る、私はこんな不健康なことはないと考えています。
先人たちの築いたものの上に「私」も何かを築いていく、そして次のものたちに伝えられていく。文化とはそういうものであり、そして絵画もれっきとした文化であり、そのように歴史を積み重ねてきました。「個性」とか「独創性」といったものは、文化を「私」はどのように受け継ぎどのようにカタチにするかというところに現れるものだと思います。絵画云々以前の問題として、
「誰が導いてくれる」
「誰かがすでに考えてくれているので」
「私」という人間は育まれ、成長していけるのです。
「普段自分でもやらないような」
とあります。幼児もひとりきりだといろいろなことに積極的になれません。近くに母親がいることで、その安心感で積極的に、大胆に他の人に関わっていったり、興味をのばしていったりできるようになるといいます。これは幼児だけの話ではありません。大人になっても同じです。それはここでひとつひとつ例をあげるまでもなく、日常を振り返ってみるとそういうことばかりではないでしょうか。そこで成長していくために何より必要なのは、そういう存在を自ら探しまわり見つけ出すことです。絵画の学習においては、「個性」「独創性」を言い訳にして、人の作品を積極的に見に行く努力を惜しむ人は、残念ながらどれだけ指導をしても、ある一定以上の成果をだすことはできません。
「そうやいっても、自分の感情は入ってくるものだ」
とうのも、まさにそのとおりです。何にもしなくても「感情は表現できる」と思っているのは、間違いです。ただ悲しいに任せて泣き叫ぶ、怒りにまかせて怒鳴り散らす…それも「表現」と言えば表現だとは思います。しかし、本当の意味の「表現」と呼べるのは「コミュニエケーション」としての機能を持っているものです。他人に対するコミュニケーション、そして自分自身とのコミュニケーションとして機能するもの。役者の演技にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、そして絵画にしろ、例えば怒りの表現をする時に、表現者が「怒り」という感情の中に埋没してしまったらまともに表現することはできないでしょう。「怒り」という感情に対する気持ちの移入がなければそれはそれで無味乾燥なものとなってしまいますが、一方で冷静に客観的にその感情を見つめ、どうやったら表現として昇華できるかという部分があってこそ、みんながその価値を理解し合えるコミュニケーションとしての「表現」になるのです。
最初は何も考えずに、何気なくある歌を口ずさんでいたら、いつしか気持ちがその歌のムードに染まってきた、というような経験はないでしょうか。なんとなくイライラしていたのが、穏やかな表情の絵画を視ているうちに心まで穏やかになってくる、そんな経験はないでしょうか。「他人」の表現のしかただから「私」の感情は入らない、ということはないのです。自分は自分、他人は他人と切り離してしまうのではなく、むしろその真逆の状態、すなわち「共感」、これが表現という人間の活動を支えている心の力だと私は思います。実際には血も涙も通っていない物質の在り方に過ぎない造形ですが、造形には人の心に働きかける力があります。「赤」は人間を興奮させる。尖ったカタチよりも、まろやかなカタチのほうが視ていて安らぐ等々、そんな造形と心の結びつきを基本としながらも、実際の絵画表現はもっと複雑に多様に表現されています。そうした先人たちの築いた様々な造形の表情を味わうこと中で、「造形によって感情を表現すること」が身に付いてくるのです。その意味でも、参考となる作家、幼児にとっての母親のような作家、あこがれの作家が必要なのです。参考にする作家、作品は、母親のような存在であると同時に、良き師、相談相手であるとも言えます。そう人たちに見守られながら成長してっく、そして独り立ちしてく力を身につけていくのです。
今回のこの課題に限らず、これからも積極的に母となり、父となり、師となり、相談相手となる作家、作品を求めながら作品制作に臨んでください。
関連タグ学生に伝えてきたこと
作品に添えられたレポートに、まさにこの課題の意図するところを組んでくれたことの感じられる一文があった。 そのことに触れながら、私がこの課題作品に対して書いた講評の一部を抜粋して紹介する。
《講評》
「作家が導いてくれる」
「作家がすでに考えてくれているので」
「普段自分でもやらないような」
「そうはいっても、自分の感情は入ってくるものだ」
レポートに書かれたこれらの感想、まさにこういうことを体験してほしくてこの課題を設定したと言えることばかりです。表面的に「個性」「オリジナリティ」「創造性」「独創性」といったこと捉え、誰も参考にすることなく自分でゼロからモノを作る、私はこんな不健康なことはないと考えています。
先人たちの築いたものの上に「私」も何かを築いていく、そして次のものたちに伝えられていく。文化とはそういうものであり、そして絵画もれっきとした文化であり、そのように歴史を積み重ねてきました。「個性」とか「独創性」といったものは、文化を「私」はどのように受け継ぎどのようにカタチにするかというところに現れるものだと思います。絵画云々以前の問題として、
「誰が導いてくれる」
「誰かがすでに考えてくれているので」
「私」という人間は育まれ、成長していけるのです。
「普段自分でもやらないような」
とあります。幼児もひとりきりだといろいろなことに積極的になれません。近くに母親がいることで、その安心感で積極的に、大胆に他の人に関わっていったり、興味をのばしていったりできるようになるといいます。これは幼児だけの話ではありません。大人になっても同じです。それはここでひとつひとつ例をあげるまでもなく、日常を振り返ってみるとそういうことばかりではないでしょうか。そこで成長していくために何より必要なのは、そういう存在を自ら探しまわり見つけ出すことです。絵画の学習においては、「個性」「独創性」を言い訳にして、人の作品を積極的に見に行く努力を惜しむ人は、残念ながらどれだけ指導をしても、ある一定以上の成果をだすことはできません。
「そうやいっても、自分の感情は入ってくるものだ」
とうのも、まさにそのとおりです。何にもしなくても「感情は表現できる」と思っているのは、間違いです。ただ悲しいに任せて泣き叫ぶ、怒りにまかせて怒鳴り散らす…それも「表現」と言えば表現だとは思います。しかし、本当の意味の「表現」と呼べるのは「コミュニエケーション」としての機能を持っているものです。他人に対するコミュニケーション、そして自分自身とのコミュニケーションとして機能するもの。役者の演技にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、そして絵画にしろ、例えば怒りの表現をする時に、表現者が「怒り」という感情の中に埋没してしまったらまともに表現することはできないでしょう。「怒り」という感情に対する気持ちの移入がなければそれはそれで無味乾燥なものとなってしまいますが、一方で冷静に客観的にその感情を見つめ、どうやったら表現として昇華できるかという部分があってこそ、みんながその価値を理解し合えるコミュニケーションとしての「表現」になるのです。
最初は何も考えずに、何気なくある歌を口ずさんでいたら、いつしか気持ちがその歌のムードに染まってきた、というような経験はないでしょうか。なんとなくイライラしていたのが、穏やかな表情の絵画を視ているうちに心まで穏やかになってくる、そんな経験はないでしょうか。「他人」の表現のしかただから「私」の感情は入らない、ということはないのです。自分は自分、他人は他人と切り離してしまうのではなく、むしろその真逆の状態、すなわち「共感」、これが表現という人間の活動を支えている心の力だと私は思います。実際には血も涙も通っていない物質の在り方に過ぎない造形ですが、造形には人の心に働きかける力があります。「赤」は人間を興奮させる。尖ったカタチよりも、まろやかなカタチのほうが視ていて安らぐ等々、そんな造形と心の結びつきを基本としながらも、実際の絵画表現はもっと複雑に多様に表現されています。そうした先人たちの築いた様々な造形の表情を味わうこと中で、「造形によって感情を表現すること」が身に付いてくるのです。その意味でも、参考となる作家、幼児にとっての母親のような作家、あこがれの作家が必要なのです。参考にする作家、作品は、母親のような存在であると同時に、良き師、相談相手であるとも言えます。そう人たちに見守られながら成長してっく、そして独り立ちしてく力を身につけていくのです。
今回のこの課題に限らず、これからも積極的に母となり、父となり、師となり、相談相手となる作家、作品を求めながら作品制作に臨んでください。
関連タグ学生に伝えてきたこと




