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Yama_Blog

デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。

2010年1月10日
絵画を制作していく上で様々な疑問を抱いたり、迷いが生じたり、どうしていいかわからなかったりするという経験をするのは当たり前のことである。そこで「私は困りました。どうしたら良いでしょうか」と例えば指導者に質問する。 これも「問い」ではある。しかし、大いなる問いではない。小さな問いである。問いの大小はどこで決まるか。真に価値のある答を求めるならば、それに相応し い価値のある「問い」を創造しなければならない。その最も基本となることは、まず「問い」を発している自分自身をしっかりと見詰めようとしているかどうか である。同じような問いかけの内容であっても、誰がどういう状況で、何を求めて発しているかによって価値のある答の在り様もまったく違ってくる。つまり問 いが生じる背景やベースをしっかりと頭の中でカタチにするイマジネーションが必要なのである。以前にも述べた。人間は問うためにイマジネーションを与えら れている。

場合によっては、「問い」の背景にあるもの、ベースになっているもの、要因となっているものを整理している内に自然に答に行き着いてしまう、ということも少なくない。これもまた大いなる問いが大いなる答であるという話しである。

他の分野でもそういうところはあるかもしれないが、答が一つではないこと、それぞれの問題意識や趣味嗜好、主義主張で答が変わってくるような分野の 活動、例えば絵画の学習などにおいては「答」を学ぼうとすることよりも、「問い方」を学ぼうとすることのほうが大切だということを念頭において臨んでほし い。




2010年1月7日
「筆の純度」

この言葉はみなさんはどのように受け止めるであろうか。


私の大切にしている蔵書の中に美術評論家の南嶌宏氏著「豚と福音-現代美術の純度へ」という本がある。これま で氏が雑誌や展覧会カタログに執筆してきたエッセイ、評論をまとめたものである。「筆の純度」とはその中の「吉田寛志」という作家のカタログに寄稿された 文章で使われた言葉。その言葉はこのような文章の中に登場してくる。


「『見る』ことと『描く』ことの不断の連続に高まりゆく『筆の純度』」


言葉は、意味や情報を正確にわかりやすく伝えることという役割がある。しかしここに綴られた言葉から、あなた は正確に筆者のイメージする「筆の純度」というものが如何なるものかを理解することができるだろうか。私にはできなかった。できなかったけれど、それはと ても美しい言葉に感じられた。


その言葉は謎として、あるいは「氏は何をもって筆の純度と見なしたのか」「筆の純度とはいかなることであるか」という大きな「問い」として私の心に刻まれた。


しかし今に至って氏が如何なる想いを以てこの言葉を使ったのかということは私にとってそれほどの問題ではなく なってきた。むしろ、この「問い」私の制作に向けられるようになった。私の執る筆にとって純度とはいかなるものか、私が執る筆の純度はどれほどのものなの か。勿論、これとて明確な答が得られるわけではない。ひとつの解答に集約されるような問いでもない。



問うことは求めようとする想いであり、聴こうとする意志である。明確な答は得られ ずとも、その想いと意志を宿した筆致は自ずと某か手応えのある佇まいとなって現れてくる。果たして一枚の作品にどれほどの数の筆致があるのであろうか。何 百、何千いや時に何万になるかもしれない。ひとつの筆致に込めた思いが何千、何万倍にもなって作品となっていく。ただ性急に簡単に直線的に答を求めること よりも、多くの問いを積み重ねていく、それが「大いなる」と呼ぶにふさわしい答なのかも知れない。


2010年1月5日
「答え」の在り様に比べるなら「問い」は多様性に満ちたものだと思う。比べようのないことではある。しかし、例えば算数。問いが固定されれば答もひ とつに限定される。しかしひとつの答、例えば「3」という答を導きだすための計算式はいくらでも考えることができる多様である。それと人生の問題、芸術の 問題と同じにしてよいかどうか分からないが、私は同じにしてよいと思う。そのような多様性故、答を得ることよりも問うことそのもののほうが何倍もイマジ ネーションを必要とする。人間のイマジネーションは「問う」ために与えられている、私はそう考える。だからどのような問いを発するかは、まさに問う人の人 となり、個性をはっきりと反映している。「問い」は決して「答」に行き着くための道具ではない。むしろ主は「問う」ことにある。 絵画制作はその着手から完成までを通じ、作者と作品の間で何千、何万という対話が繰り広げられる。これは決して大袈裟な言い方ではない。一筆一筆は 私から作品へひとつひとつの問いかけなのだ。「こうしたらどうなる、ほうそうなったか」。問いかけだから会話が弾む。単なる一方的な答の押しつけなら、対 話は発展してはいかない。問い方が豊かであればその対話も自ずと豊かなものとなる。豊かな対話の中で育まれたなら自ずとその作品の表情、佇まいも豊かなも のになると私は確信している。答などないのだからと問いかけることすらせずに臨むことと比べるなら、答に至らないかも知れないがそれでも問い続けながら臨 む、その姿勢こそが、その心の在り様こそが総体として「大いなる答」。私はそう確信している。


2009年12月22日
「大いなる問いが大いなる答え」

私のオリジナルの言葉ではないが、かと言ってどこで聴いた誰の言葉かも忘れてしまった。それほど自然に出会った言葉だとも言える。

本当に大事なことは得てして簡単に答えは見つからない。あるいは、然々という答えそのものがない場合が多い。人は何のために生きるのか、如何に生きるべきか。この問いに対し、万人が納得するところの答えを提示できる人などいないであろう。

良い絵とは如何なるものか、良い絵を描くには如何にしたらよいのか、これも簡単に答えがでない問題のひとつである。某かこれに対する回答を用意しても、それだけでは言い尽くせぬ何かを感じたり、あるいはそれとは真逆の考え方もそれはそれで正しいことのように思えたり…。ひとつの答えに集約されるような問題ではない。

どうせ答えなどないのなら、問う意味などないではないか。

果たしてそうであろうか。

もし、人間の生きる目的はこれこれで、そのためにはこう生きていかなければならないのだ。あるいは、良い絵画とはこうした条件を満たしたものである、さあそれに合致するように描きましょう。といった答えが明確に提示されたとしたらあなたはどうするか。「我々は確固たる答を獲得した、さあもう問う必要など一切ない」。そこにおいて生きることは、絵を描くことはあなたにとって、よろこびとなり続けるであろうか。


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