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Yama_Blog

デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。

2010年11月18日
芸術というもののハードルを下げ、門戸を広くしたのもピカソの大きな功績だと考える。ピカソの絵は下手だ、子供の落書きのようだ、と揶揄されることが多い。下手でもなく、子供の落書きとも違うということはこれまでに述べてきた。しかし、確かに古典的絵画の巨匠の作品と比べるなら、あきらかに技術的なスキルを必要としないのも確かである。また制作に費やす物理的な労力や時間も少なくてすむであろう。こうしたピカソの作品がアートとして認知されたということはアートは必ずしも専門的な知識や技術を身につけなくとも(専門的にに学んだことがなくても、専門の学校を卒業していなくても)また絵画の専門家のように絵画制作のための長い時間を確保できない人でも作品を制作し、アートとして認められる得るという可能性を示したことになる。これまで何千、何万という美術愛好家、「鑑賞する」というカタチでしかアートに関われなかった人達に「なんだ、あれでもアートなら、俺にもできるかもしれない」と思わせたこと、誰もがアーティストになれるんだということを示した功績は大きいと私は考える。単に作品を生み出すだけでなく、アートの概念を広げ、可能性を示し、人々の考え方に影響を与え、アートの文化を新しい次元、人々にとってのアートとの新しい関わり方を示すことができた、という意味ではピカソの右に出るものはいないのかも知れない。


2010年10月17日
アートとは、物の属性ではない。ある物体をどれだけ計測し、科学的に分析しても、それがアートであるという要素など見いだすことはできないだろう。「ピカソの功績1」でも述べたように、アートとは人間の自由、可能性に関わる問題。考え方の問題である。あることができるようになる。するとそのことによってまだできていないことに気づくことになる。まだできていないことをできるようになりたいと思う。試行錯誤しそれをできるようになる。するとまた次のできたいないことが気になってくる…。人間の自由とか可能性というのは、そのように際限のないもの。

自由というのは実に素晴らしいことのように思われるだろう。しかし、自由度がこの上なく高いことは人間にとって必ずしも居心地の良いのもではない。未知の事柄、問題に対しあなたの自由に取り組んでもらっていいですよ」といわれ、「はいそうですか、では…」とやすやすと取り組んでいける人はそうそういない。未知。 既知の知識、方法論で対処できないこと。自分の自由な判断でそれに取り組む。それは例えるなら何に出会うかわからない前人未到のジャングルに分け入るようなものである。

未知の世界に入っていくのは勇気がいるものである。そんな時、まず誰かが先に少し入ってみて様子をみる。そしてその当たりが安全であることがわかると、他の人々は安心してそこまで入っていくことができる。無限の可能性を秘めたアートの世界。まだ見ぬ未知の表現に向かって、まず先に入っていた人、それがピカソであり、それこそがピカソの最も大きな功績。美術史の流れの中で既成の価値観の及ばぬ世界に分け入ったという功績。


2010年10月13日
ピカソの功績について項目を上げ考察していきたい。勿論、実際にはピカソひとりの功績ではない。先進的な試みがひとりのアーティストによってのみ成し遂げられるなどということもない。ある意味、これから書いていく文章の「ピカソ」を「近代の画家達」と読み替えてもらっても面白いだろう。有名、無名を問わず様々なアーティストによる先進的な試みによって起きた歴史の波にピカソがかっこよく乗ってみせた、ということかも知れない。ただし、ここでは話をシンプルにするため、敢えてピカソの功績ということで話をすすめる。

1.わからないものが芸術。



「芸術的だね」というのは往々にして褒め言葉ではない。よくわからない、美しくない、独りよがりだ、などいろいろな意味合いが含まれている。歴史を遡れば、キリストの偉業を描いた宗教画、王侯貴族の肖像画、歴史的事件を描いた歴史画等々、絵画はわかりやすく、美しく、みんなで共有できるものなければならなかった。「慣れ親しみ」これが絵画にとって重要な要素であった。特に教会や王侯貴族は言わば保守的な存在であり、自ずと絵画表現の在り方も「保守的な」ものであった。しかし人間が関心を寄せる要素は「慣れ親しみ」だけではない。「慣れ親しみ」だけではやがて飽きることになる。そこで必要となるのが「物珍しさ」。これも人々の興味を引くための重要な要素である。古典的絵画に「物珍しさ」がなかったわけではない。美術史に残る偉大な芸術家はなにかしらそれまでになかった表現、つまり物珍しい表現を作り出し美術の歴史を発展させてきたのである。しかし近代以降、社会的な権威から解放され、表現の自由度が高まってくるとこの「物珍しさ」という要素のウェイトが「慣れ親しみ」を遥かに上回り重視されることになる。単純に言えば、目新しいもの、今までになかった変わったイメージを提示できる作品ほど自由で創造性の高い作品であるという考え方。極論すれば自由と創造性は近代人が近代人たる所以となるものである。様々な既成概念から自由となり、常に新しいものの創造を追求したならば自ずとその表現は、平均的な人々の感じ方、考え方からはかけ離れていくものとなる。もしピカソが万人にとってわかりやすく、美しく感じられる作品しか描こうとしなかったならば、開拓されなかったであろう自由と創造の世界があるのである。これを開拓したことに歴史や社会にとってのピカソの意義があるのだ。「こういうのも美なんだよ」「こういうことも表現するに値する価値があるんだよ」と。しかし直接ピカソの作品を鑑賞することで得られるもの以上に、ピカソが切り拓いた自由と創造の世界というものがあり、誰もがその恩恵を確実に受けているのである。ピカソの作品自体ですらピカソが切り拓いた自由と創造の世界の中でできることのひとつの可能性に過ぎないのだ、と私は思う。確かに結果として「わからないのが芸術」といった観念も作り出してしまったことにはなるが。


2010年10月6日
「ピカソについて1」で述べたように、ピカソの、一見無造作に見える作品の中にも造形的な配慮はしっかりとなされている。というか、造形的な配慮は既にピカソの感性にしっかりと根付いており、意識するしないに関わらず自ずと描いたものには某かの造形的な配慮が現れてくるのである。そしてこれはピカソに限った話ではない。誰でもある程度絵を描き続けていればそうした力は付いてくるもの。なので、そのことを以てピカソを天才だというつもりはない。むしろ「造形や構成の妙」といったものはピカソ以外の画家にいくらでも見ることができる。だからピカソが下手だとは思わないが、作品の造形的な点について言えば、私自身はそれほど秀でたものを感じることはできない。

しかし、「ピカソという画家には価値はないのか」と問われれば、私は「確実に価値がある」と答える。ではどこなるのか。それは作品そのものの「モノ」としての価値ではなく、作家としての考え方、活動の仕方といったところにおいて。作品そのものよりも、どうしてそういう作品ができるのか、その作品がどのような影響を与えたかといったところ。勿論、これは時代や社会、美術史の流れと密接に結びついている。だからピカソの作品もそうした状況と関わって初めて意味を持つのであり、そこから切り離され単に作品だけを鑑賞しても、ピカソの本当の価値は現れてこないのである。


2010年9月30日
先の投稿でピカソの話題にふれたので、もう少しピカソについて思うところを述べてみたい。前提として、私自身はピカソの作品について、「好きな作品」と「好きではない作品」を比べたら「好きな作品」のほうが少なく、決して好みによりピカソを擁護しているわけではない。付け加えるなら「好き嫌い」と「価値を認める」ということは別問題だということ。

先の投稿でも述べたように、ピカソの表現は一見稚拙に見えながら、画面を構築、構成する意識はかなり強く働いている。しかし、そのことを以てピカソは優れている、といおうとしているわけではない。画面を構築、構成する意識は画家であるなら当たり前に 持っているべきもの。ピカソについて言うと、描写そのものが対象を正確に再現するということから解放され、すなわち形態を自由に扱えるようになったことで、画面構成の自由度が高まっているということは言える。例えば画家が、「全体のバランスからいってここにこんな曲線が欲しい」と思ったとしても、そうすることで対象の正確な形態をゆがめてしまうようであるなら、そこは妥協するか別の方法を模索するしかない(ちなみにアングルの作品で人体が不自然にゆがんでいるのはそういう理由によると言えよう)。しかし、対象の正確な再現を目的としないのであれば、造形的なバランス、構造を優先させた自由な構成が可能となってくる。しかも、対象を再現する度合いの少ないことで、対象の持つ意味性よりも、自ずと造形性が強調されることになる。ピカソの絵画が稚拙に見えることから「絵が下手なのでは」という見方が出てくるようだが、それは違う。仮にピカソがレオナルド・ダ・ヴィンチのように描こうと意図したのに、あのような画風になってしまったのなら、ピカソは完全に絵が下手、才能のかけらもない、ということになる。しかし、ピカソは、あのような表現をめざし、そしてその意図のとおりあのような表現をしたのである。イメージしたことを実現できる、それは優れた画家の必須条件である。それが本当の意味で「絵が上手」だということである。だから「ピカソは若いころは絵が上手だった」という言い方も私は的を射ていないと考える。「写実=絵がうまい」という表層的な考え方である。

ピカソに限らずある画家がどれだけ画家として優れているかを説明しつくすことはで容易ではない。しかしひとつ言えることは、何をもって「優れた画家」とするのかその判断基準は様々だということ。ある意味ではいろいろと判断基準をイメージすることができるかどうか、判断者の力量があからさまになることでもある。ピカソを下手だと言ってもよい。あなたがそう判断したなら。ただ本当にそう判断する前に、一体ピカソを良いと言えるとしたらどんな判断基準があるのだろうか、ということを落ち着いて自分の中で考えてみてほしい。ただし、値段については何とも言えない。それは美術の側からの判断ではなく、経済の側からの判断になる。だから、ピカソの値段の妥当性についてはへたに美術関係者に聞くより、経済関係者に聞くべきである。少なくとも私は美術の教員であるが、値段の妥当性については何も説明できない。


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