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Yama_Blog

デザイン学科絵画コースを題材としたブログです。山口先生の考え方やスクーリングの様子などを掲載しています。

2010年3月13日
「Q&Aクロッキーとはどのような表現か1」の中で

「ちなみにいわゆる「似顔絵」という分野の表現とクロッキーは別もの。ここで言う「似顔絵」はクロッキーによる肖像画といったほうが適切ではある」と述べた。これについて少し述べたい。

同じ人の顔を描くことではあるが、私にとってクロッキーという行為は、対象から新鮮な造形を感じたい、という気持ちに支えられている。何も見ずに人間の顔を描くのはそれほど難しいことではない。しかし、実際にいろいろなひとの顔を観察すると、自分の頭の中でイメージする以上に様々な形の表情がある。それを発見することは面白い、クロッキーの醍醐味である。

しかし、いわゆる「似顔絵」はこれとは違う。表現に臨む姿勢はある意味真逆である。似顔絵を描く人はあらかじめ顔の様々なパーツのパターンを持っており、描く相手に合致するものをそのパターンの中から選び出し、配置していく、ように描いていく。既に準備してある周知のカタチで顔を構成していくわけであるから、描くことや観察を通じカタチの面白さに気づいていく、先にクロッキーの醍醐味と述べたような楽しみ、悦び、ときめきはない。それは言わばどんなものが出るかやってみなければわからないドキドキ感でもある。一般的に「似顔絵」という分野は作者のそうした造形行為に対する喜びよりも、客に満足を与えることのほうが大切。やってみなければわからないドキドキ感と引き換えに、一定の質を保ちやすい、はずれがないようにコントロールしやすい表現スタイルだと言えよう。

だから描く対象が人間の顔以外のものになるととたんに巧く描くことができなくなる人もいる。つまり手元にそれを描くための部品がないものは描けないのである。

以上述べてきたのはあくまで一般論。本当に絵がうまい人もいる、新鮮みあるれる造形を描き出す人もいる。おそらくそういう人はクロッキーをしても巧いのだろう。


2010年3月13日
「Q&Aクロッキーとはどのような表現か1」の中で

「ちなみにいわゆる「似顔絵」という分野の表現とクロッキーは別もの。ここで言う「似顔絵」はクロッキーによる肖像画といったほうが適切ではある」と述べた。これについて少し述べたい。

同じ人の顔を描くことではあるが、私にとってクロッキーという行為は、対象から新鮮な造形を感じたい、という気持ちに支えられている。何も見ずに人間の顔を描くのはそれほど難しいことではない。しかし、実際にいろいろなひとの顔を観察すると、自分の頭の中でイメージする以上に様々な形の表情がある。それを発見することは面白い、クロッキーの醍醐味である。

しかし、いわゆる「似顔絵」はこれとは違う。表現に臨む姿勢はある意味真逆である。似顔絵を描く人はあらかじめ顔の様々なパーツのパターンを持っており、描く相手に合致するものをそのパターンの中から選び出し、配置していく、ように描いていく。既に準備してある周知のカタチで顔を構成していくわけであるから、描くことや観察を通じカタチの面白さに気づいていく、先にクロッキーの醍醐味と述べたような楽しみ、悦び、ときめきはない。それは言わばどんなものが出るかやってみなければわからないドキドキ感でもある。一般的に「似顔絵」という分野は作者のそうした造形行為に対する喜びよりも、客に満足を与えることのほうが大切。やってみなければわからないドキドキ感と引き換えに、一定の質を保ちやすい、はずれがないようにコントロールしやすい表現スタイルだと言えよう。

だから描く対象が人間の顔以外のものになるととたんに巧く描くことができなくなる人もいる。つまり手元にそれを描くための部品がないものは描けないのである。

以上述べてきたのはあくまで一般論。本当に絵がうまい人もいる、新鮮みあるれる造形を描き出す人もいる。おそらくそういう人はクロッキーをしても巧いのだろう。


2010年3月9日
「3.作品制作の計画のため、あるいは資料として描く」ということについて。

今は写真という道具があって、残しておきたい画像は労せずして記録しておくことができた。しかし、そんな便利なものがない時代、画家はどうやって絵のモチーフを取材したのだろうか。勿論、モデルを雇って時間をかけデッサンするという方法がある。しかしそんなことができな場合もあるだろう。例えば動物を描く場合、そう都合よく何十分もじっとしてはくれない。最近テレビで伊藤若冲の「群鶏図」というのを見た。私が小さい頃、家で鶏を飼っていた経験からも鶏がそんなにじっとしていないことは知っている。おそらくわずかな時間の中で、時に全体のカタチ、あるいは個々のパーツを速写し、そうして取材した材料を組み立てることであの緻密な鶏を描き上げていったのだろう。 レオナルド・ダ・ヴィンチが渦巻く水を描いた素描も有名であるのでみなさんも眼にしたことがあると思う、これもまた短時間で描かなければならないものである。おそらく昔の画家はみなクロッキーの達人であったことだろう。なんという画家だったか失念したが、建物の上のほうから落ちる人をスケッチしたという逸話があるそうだ。

では今は写真があるからクロッキーはいらないのか、というとそうではない。その眼でしっかりと観察し、手をつかって描きとめることでイメージは深く心に刻まれる。試しにどんな風景でもよい、巧いとか下手とかは関係なく描いてみよう。そして別の風景を写真に撮ってみよう。どちらが後々まで心に残るか、思い出すことができるか。前にも述べたが絵とは色やカタチを右から左に画面の上に移すような機械的な行為ではない。観察し、描く、そのプロセスでどれだけ心が動き、豊かなイメージが育まれるか。心を動かすには自らの身体を十全に使い、持てる能力を出し切るにしくはない。心に刻まれた様々な感慨、印象、造形にとどまらぬそうした様々な想いが作品の表現を豊かにしていくのである。

最後に「4.対外的な目的はなく、ただ自分の描きたいという欲求を満たすため描く 」ということについて。これについてはあえて詳しく述べるのはやめよう。「Q&Aクロッキーとはどのような表現か1」で述べた私の経験が物語っていると思う。絵が好きな人が絵を描くことで得る至福。


2010年3月9日
「2.練習のために描く」ということについて。

「練習」の意味するところはふたつ。「視る練習」と「描く練習」。クロッキーによる「視る練習」、「描く練習」とはどのようなものであるのか。デッサンの必要性についての話でも述べたことであるが、絵画制作において「描く力」と同じくらい、時にそれ以上に重要になるのが「視る力」である。

さて、この視る力、私が思うに長時間かけて緻密に理解する視方と、そして瞬間的に対象の概要を捉える視方のふたつがある。そして絵画制作においてはそのプロセスを通じ常に両方の視方で対象を捉えていると思う。またこれは絵画制作に限ったものではない、日常生活においても同じことである。しっかり考えることは大切、しかし必要だからと何から何まで熟考ばかりしていては物事は遅々として進まない、直感を活かして大胆に判断していくほうが良いこともある。要は大胆さと繊細さのバランス。多少不正確であっても大筋を捕まえなければ、緻密な作業にも取りかかれない。その不正確さに気づき修正していくのにも瞬発力が必要。だいぶ描きすすめてから「違っていた」では効率が悪い。つまり長時間かけた作品制作においても、瞬時に捉える視方が必要なのである。その観察の瞬発力を養うのにクロッキーはもってこいである。

さて次に「描く練習」としてのクロッキー。 「描く練習」は更にふたつにわかれる。「頭の中に浮かんだイメージを瞬時に描き出す練習」と「腕が縦横無尽に動かせるようになり表情豊かな形態が描けるようになる練習」。
まずは「頭の中に浮かんだイメージを瞬時に描き出す練習」について。「閃く」という言葉があるとおり、人間が何か着想するというのは往々にして一瞬のことである。ひとつの着想が刺激になって更なる着想を得る。作品の構想を練っているときなど、よくあることである。真剣に物事を考えていると、人間の頭はものすごい勢いで回転している。描き止めなければ忘れてしまう、消え去ってしまう。願わくば瞬時にそれらを描き留めておきたい、という希望に応えられる描く力を練習する必要がある。クロッキー、あるいはデッサンでもそうだが、絵を描くということは観察した対象を機械的(あたかもカメラのように)に、右から左へといった具合に画面の上に写していくものではない。観察によってまず頭の中に、「なるほど、こうなっているのか」というイメージ、「ではそれを画材をこう使って、こういう描き方をしよう、そうすればこうなるだろう」 という自身の活動のイメージを構築した上で臨む活動である。対象のイメージ、描き方のイメージ、頭の中に次々と生じるこうしたイメージを即時的に描画できる力をクロッキーによって養うことができる。

もうひとつ「腕が縦横無尽に動かせるようになり表情豊かな形態が描けるようになる練習」 について。ひとつめとも関連してくるが、観察して得たイメージ、描き方についてのイメージを描くには腕が縦横無尽、自由自在に動かせ、イメージの繊細さに応じたデリケートで表情豊かな形態を描ける必要がある。そのためには、当たり前だがいろいろな表情のものをたくさん描くと良い。特に植物の茎や葉っぱなど自然ものは積極的にクロッキーしてみよう。頭の中の観念的な葉っぱは紡錘形というかレンズを横からみたようなカタチで現されることが多い。しかし、実際に自然の状態で観察できる葉っぱはそんな単純なものではない、どんなシンプルな葉っぱであっても視る角度によってふたつと同じカタチに見えるものはない。また他の葉っぱとの重なり具合、まとまり具合、ばらけ具合などその位置関係の自然なリズム感も是非参考にしてほしい。クロッキーの上手な人は往々にして必要に応じて自然な疎密やリズムの変化に富んだ造形を描きだす。しかしそうでな人は機械的で単調になる場合が多い。更に上達すると、頭で考えるよりも先に手が動くようになる。「ほう、こんなカタチがでてきたか」と。作曲の仕方はいろいろであろうが、必ずしもまず先に頭の中にメロディーが浮かんで、次にそのメロディーを楽器で弾いてみるということばかりではないと思う。楽器を弄んでいる内に想いもよらなかいメロディーが飛び出してくる、「いいね。これ使える!」ということは想いの他多いのではないだろうか。「手は外に突き出したもう一つの脳である」という言葉がある。手が脳の考えたことを清書するだけの召使いではなく、自ら積極的にクリエイティブな活動に関わって何かを生み出しているのである。勿論その力は経験を積み重ねなければ身につけることはできない。その経験の場としての意味がクロッキーにはある。


2010年3月9日
「2.練習のために描く」ということについて。

「練習」の意味するところはふたつ。「視る練習」と「描く練習」。クロッキーによる「視る練習」、「描く練習」とはどのようなものであるのか。デッサンの必要性についての話でも述べたことであるが、絵画制作において「描く力」と同じくらい、時にそれ以上に重要になるのが「視る力」である。

さて、この視る力、私が思うに長時間かけて緻密に理解する視方と、そして瞬間的に対象の概要を捉える視方のふたつがある。そして絵画制作においてはそのプロセスを通じ常に両方の視方で対象を捉えていると思う。またこれは絵画制作に限ったものではない、日常生活においても同じことである。しっかり考えることは大切、しかし必要だからと何から何まで熟考ばかりしていては物事は遅々として進まない、直感を活かして大胆に判断していくほうが良いこともある。要は大胆さと繊細さのバランス。多少不正確であっても大筋を捕まえなければ、緻密な作業にも取りかかれない。その不正確さに気づき修正していくのにも瞬発力が必要。だいぶ描きすすめてから「違っていた」では効率が悪い。つまり長時間かけた作品制作においても、瞬時に捉える視方が必要なのである。その観察の瞬発力を養うのにクロッキーはもってこいである。

さて次に「描く練習」としてのクロッキー。 「描く練習」は更にふたつにわかれる。「頭の中に浮かんだイメージを瞬時に描き出す練習」と「腕が縦横無尽に動かせるようになり表情豊かな形態が描けるようになる練習」。
まずは「頭の中に浮かんだイメージを瞬時に描き出す練習」について。「閃く」という言葉があるとおり、人間が何か着想するというのは往々にして一瞬のことである。ひとつの着想が刺激になって更なる着想を得る。作品の構想を練っているときなど、よくあることである。真剣に物事を考えていると、人間の頭はものすごい勢いで回転している。描き止めなければ忘れてしまう、消え去ってしまう。願わくば瞬時にそれらを描き留めておきたい、という希望に応えられる描く力を練習する必要がある。クロッキー、あるいはデッサンでもそうだが、絵を描くということは観察した対象を機械的(あたかもカメラのように)に、右から左へといった具合に画面の上に写していくものではない。観察によってまず頭の中に、「なるほど、こうなっているのか」というイメージ、「ではそれを画材をこう使って、こういう描き方をしよう、そうすればこうなるだろう」 という自身の活動のイメージを構築した上で臨む活動である。対象のイメージ、描き方のイメージ、頭の中に次々と生じるこうしたイメージを即時的に描画できる力をクロッキーによって養うことができる。

もうひとつ「腕が縦横無尽に動かせるようになり表情豊かな形態が描けるようになる練習」 について。ひとつめとも関連してくるが、観察して得たイメージ、描き方についてのイメージを描くには腕が縦横無尽、自由自在に動かせ、イメージの繊細さに応じたデリケートで表情豊かな形態を描ける必要がある。そのためには、当たり前だがいろいろな表情のものをたくさん描くと良い。特に植物の茎や葉っぱなど自然ものは積極的にクロッキーしてみよう。頭の中の観念的な葉っぱは紡錘形というかレンズを横からみたようなカタチで現されることが多い。しかし、実際に自然の状態で観察できる葉っぱはそんな単純なものではない、どんなシンプルな葉っぱであっても視る角度によってふたつと同じカタチに見えるものはない。また他の葉っぱとの重なり具合、まとまり具合、ばらけ具合などその位置関係の自然なリズム感も是非参考にしてほしい。クロッキーの上手な人は往々にして必要に応じて自然な疎密やリズムの変化に富んだ造形を描きだす。しかしそうでな人は機械的で単調になる場合が多い。更に上達すると、頭で考えるよりも先に手が動くようになる。「ほう、こんなカタチがでてきたか」と。作曲の仕方はいろいろであろうが、必ずしもまず先に頭の中にメロディーが浮かんで、次にそのメロディーを楽器で弾いてみるということばかりではないと思う。楽器を弄んでいる内に想いもよらなかいメロディーが飛び出してくる、「いいね。これ使える!」ということは想いの他多いのではないだろうか。「手は外に突き出したもう一つの脳である」という言葉がある。手が脳の考えたことを清書するだけの召使いではなく、自ら積極的にクリエイティブな活動に関わって何かを生み出しているのである。勿論その力は経験を積み重ねなければ身につけることはできない。その経験の場としての意味がクロッキーにはある。


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