YAMA_Blog|ASU-愛知産業大学・愛知産業大学短期大学-通信教育部

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12.02.19

 先に投稿した「絵画制作への導入1〜7」をご覧いただいてから見ていただくと、この制作で取り組んでいる活動の意味合いをよりよく理解していただけるかと思います。
今回撮影した学生は、アクリル画は始めての体験です。絵画制作のプロセスをいくつかの段階に分け、それぞれの段階で意識す ること、しないこと、取り組むこと、取り組まなくて良いことを決めることで、持っている能力を集中して効果的に活用していきます。「絵を描く」というひとつの能力があるわ­けではありません。それはいくつかの能力の総合であり、そのひとつひとつの能力は実はだれもが普通にもっていて、普通に使っている能力です。絵画の描き方を学ぶということ­は、そうした能力の使い方の効果的な使い方を学ぶということでもあります。
 段階的に制作を進めますので、描画や彩色を何層にも重ねていくことになります。そうした段階を追いながら徐々に形を修正したり、表現したい色彩を模索していきます。最初か­らきちんとした下絵を描き、そこに色を塗っていく塗り絵的なプロセスとは真逆の進め方、制作の途中でどんどん修正を加えていける描き方です。初学者にとっては、始めから正­しく描くことを要求されるのはプレッシャーになります。描く中で正しいことに気づいていける、そういうプロセスが大切だと思います。修正を繰り返すなかで対象の形態や色彩­を理解し、造形を味わうことを身につけ、自分の表現したい造形についてイメージを固めていくことができるようになります。こうしたプロセスを通じてカタチや色彩とふれあい­、多くの経験をすることで、表現技法や考え方の引き出しが増え、またこの先、絵画以外の分野を学ぶ上での基礎となっていくのです。
 制作の途中で、実際のモチーフにはないようなカラフルな色使いをしています。こうした色使いに特にルールがあるわけではありません。全くなにも考えずに使っているわけでも­ありませんが、先ず好きな色で描きはじめる、同じ色ばかりずっと使っていると、だんだん線が見えなくなってくるので色を変える、それを繰り返しているうちにカラフルになっ­てきたと、そのようにお考えください。



関連タグ:段階的制作 

Posted by yamagu at 20:47  パーマリンク

12.02.19

絵画、静物着彩画のためのスケッチの様子です。モチーフはそれほど複雑ではありませんが、いざ構図を決めようとすると、そこには様々な可能性があります。できるだけ納­得のいく構図をえらびたいもの。造形にかかわることは目と頭だけでは解決できません。必ずスケッチをしながら確認しフィードバックしていく必要があります。さて、この動画­で紹介しているスケッチは例えるならメモ程度の簡単なものです。私は1枚のスケッチはせいぜい20秒程度で描くように指導しています。このスケッチはあくまで構図を決める­ための自分の考えを確認したり、整理したりするためのもので人に見せる作品ではないということ。目的を果たせる最小限の労力と時間で仕上げるようにさせています。なぜなら­1枚のスケッチに、もし10分かけているとしたら、何枚も描くのが億劫になってしまいます。この段階のスケッチはいろいろな可能性を探るためにたくさん描くことが必要です­。そのためには次から次へと描きとばしていけるような描きかたをする必要があります。
絵画に正解はありません。それだけに自分のしていることを自信をもって正しいというのは難しいものです。そんな中では、どれだけ多くのの可能性の中から選択したかというこ­とは自信、確信につながっていくものです。
そしてこうしたスケッチの仕方を習得することは、これから先、構想がや抽象画、あるいは建築やデザイン、クラフトといった他の分野での作品制作にも役に立ってきます。
もうひとつ、短時間で描くことの大きな意味があります。それはポイントを押さえて観察するようになるということです。例えば自分の見た映画の話を人にしようとした場合、時­間があると思うと、ついダラダラとしゃべってしまいがちです。しかし、短い時間しかかけられないということになると、要点を考えて伝える工夫をするでしょう。これと同じこ­とです。短時間のスケッチは描く労力は少ないかも知れませんが、ポイントを押さえる判断力、主従関係を見極める観察力を要求される描き方だと言えます。しっかり練習し見に­つければ効果的な作品制作に多いにに役立ちます。また短い時間を効果的に使えるようになるという意味でのでも通信教育で学ぶ学生の皆さんに是非習得してもらいたいと思いま­す。



Posted by yamagu at 20:35  パーマリンク

12.02.03

 「脳は眠らないー夢を生みだす脳のしくみ」という本を読んでいる。人間は何故絵を描くのか、表現をするのか。そのもっとも根本的な理由を探るのに、「夢」というのがとても重要なヒントになるのではないかと考えている。
 「現実から解放され、自由に想像力が羽ばたいて…」というようなことではない。むしろ現実的に人間が心身ともに健全に活動していくために夢が果たしている役割があり、それと共通点がような役割が、絵画を描くことをはじめ人間の表現活動にもあるのではないか、そのように考えている。
 夢は睡眠によって外部からの情報を遮断した状態、いわばオフラインの状態での脳の活動によるものである。商店に例えるなら、棚卸し、商品整理は店を閉めて、言わばオフラインの状態で行われる。開店した状態、つまりオンラインの状態で外から来る客に対応しながらでは効率的に棚卸し、商品整理はできない。睡眠中の脳の活動もこれと似たようなこと。覚醒中(オンライン)は外部と関わりながらとにかくいろんな経験をする、睡眠中(オフライン)はそうして覚醒中に得た様々な新しい情報を整理したり、過去の記憶と照合したり、結びつけたりしながら意味付けを行ったり、世界観を更新したりする。また新しく習ったことをイメージトレーニングしたり、これから取り組むことのシミュレーションをしてみたり。また感情の整理するというようなことも睡眠中の脳の中で行われている。そうした雑多で多様な脳の活動が夢というカタチになって現れる。
 このことがどのように「人間は何故絵を描くのか」という問題と結びつくのか。いろいろな人がいろいろな理由で絵を描いている。職業だったり、名誉のためだったり、社会的貢献だったり、仲間づくりだったり、教育のためだったり…上げればきりがない程、様々な絵を描く理由がある。しかしもっと根源的なところ、人間としてホモサピエンスとして絵を描く理由は何なのか、そもそも何のために我々は絵を描くという能力を授かったのか。
 幼児の活動を通じてそのことを考えてみる。幼児はとにかく絵を描くことが好きである。かといって先ほど述べたようなはっきりとした目的や理由があって絵を描くわけではない。ただただ描く、本能に導かれて…と言っても良いだろう。幼児が描くのは単なる経験の記録ではない。描くことで記憶が反芻される。反芻された記憶はより深く心に刻まれ、様々な思い出や他の記憶が結びつきながらイメージは展開していく。絵を描くことは単に何かの再現にとどまるものではない。時にそれはイメージトレーニングであり、シミュレーションでもある。つまりこの活動なくして人間は人間として正常に生きていはいけない、健全な生活には不可欠のことなのである。睡眠中の脳の活動と同じとはいわないが、かなり同じような意味合いをもった活動なのだと私は考える。
 絵を描くことは、起きている時の活動であるから、睡眠中のようなオフラインの脳の中で行われる活動とはやはり同じではない。同じではないが、幼児が絵は描くことは、特に社会的なルールに縛られるわけでもなく、特に目的や手段を考える必要もなく、どうあらねばならないという拘束もない、誰のためにいつまでにどうしなければならないという活動でもない。それもある意味で「オフライン」状態だと言ってよいだろう。あらゆるものから切り離され、自由に模索し、自由に試し、自由に何かを作り上げていける状態。それに専念できる状態。そんなところにも睡眠中の脳の活動、夢との共通性を感じるのである。
 ある別の本にはこんなことが書いてあった。ラスコーやアルタミラといった古代の洞窟壁画について「彼らにとって、闇につつまれた洞窟は、外部から隔絶された睡眠中の脳内そのものであり、そこに絵を描くことは夢を見ること全く同じ活動なんじゃないか」と。先ほど述べた睡眠中の脳内の活動を踏まえながら考えると実に興味深いことである。こうした洞窟壁画が書かれた理由について諸説あるが、そうした様々な理由や目的の更に根底にあるもの。そこから宗教も生まれる、人々の結束も生まれる、教育や呪術もまたしかり。
 夢について考えることで美術の根源的な力について何か大きな示唆がえら得るのではないか、そんな手応えが感じられる。指導の仕方にも絶対関係してくるはずだと思う。


Posted by yamagu at 17:46  パーマリンク

12.01.23

 作品の素材を自ら積極的に求め歩くことはない、むこうからやってきたものを素材にして作品が出来ていく。作品をつくる時には、何を表現しようとか、どんな作品にしようとかということは考えない。時間によって変化した素材のあるがままの表情を活かしたい…。
 作家のそんな話を聞きながら、最近読んだある本に書いてあったことを思い出していた。世界の様々な創世神話には3つの性格がある。それは「なる」と「うむ」と「つくる」である。「つくる」というのは旧約聖書のように唯一絶対神がすること。日本の神話にはその発想はなく、すべては「なる」か「うむ」によって生じている、というようなこと。私の解釈だが、何かを「作る」ということは人為人工の話。まず主体が存在し、その主体による意志、何らかの目的、意図を実現すべく、しかるべき技法を用い、しかるべきプロセスによってモノを生じさせること。これに対し「なる」とは、いわば自然現象の在り方。自然には心も意志もない。何か目的や意味があってものを生じさせるわけではない。ただただそこにあるもの、そこに働く力、作用によって自ずから生じたもの。
 こんなことを思い出しながら、作家の話を伺っていると、はたして、この作家の手によって生じた、このモノたちは、果たして「作られた」ものといえるものなのだろうか、「作品」と呼んでよいものなのか、そんな戸惑いを覚えた。それらの作品のそのような出自はむしろ「なった」と表現するのがふさわしいのかもしれない。
 「作る」とは人間にのみ許された活動である。どんなモノであれ、人間はそれが現れることで変わるであろう未来を想像しながら作る。そのものがもたらす未来を信じ、期待に胸をふくらませながら人間は何かを作りつづけている。それが人間としてのアイデンティティであり、人間としての尊厳である。その意味で作品は、どんな作品であれ、どのような作者の意図によって作られたものであれ必ず未来へ向けられたものである。このことに違いはない。山本氏の作品の在り方や制作においてもそれは変わらない。しかし、それにしても私がその一連の作品から感じるものを一言で言うなら「過去」である。その過去とは思い出とか、郷愁とか、そういった意味合いの過去ではない。素材が選ばれ、今こうして展示されているその姿になるまでの時間、という意味合いでの過去。「選ぶ」「バラす」「並べる」「つり下げる」「組み合わせる」「破く」「貼る」等々。作品の佇まいのうちに自ずと醸し出される、作家と素材が関わったそれらの行為とそれを包みこむ時の流れ。そして作品の誕生の瞬間。 
 「つくる」とは、何もしなければ眼に見えない、耳に聞こえない、心の中に潜む想いにカタチを与え、眼に見えるように、耳に聴こえるようにすること。心の中に浮かんだビジョン、それを行動に移し、道具や材料といったモノと関わりながら、世界に働きかけていく。できあがったモノは、ある意味では、作り手の心にあるものを運ぶ器にすぎない、という言い方もできる。こんな言い回しをするとなにか特別なものの在り方に聴こえるかもしれないが、決してそうではない。普通のモノの在り方である。モノとは、それが何らかの目的のために作られたのならば、そういうものなのである。しかしここにそれとは真逆のプロセスによって生み出されたモノ、存在するモノがある。「なる」もの。世界の中に在る。そこで出会う様々なモノ。特に意図があるわけでなく、ただただそれらのモノに触発され、それらが道具となり材料となり、何かがカタチをなしていく…その営み、行為を通じ自ずと何かが感じられる、それらが積み重なって心になっていく、想いが芽生える…。意図や目的の束縛を受けないイマジネーションは自由に羽ばたく。山本氏の作品とはそのように「なる」ものなのだろう。
 以前は絵画を制作していたころ、今とは違い材料や道具そしてテーマを積極的に求めていた。しかしその中で「自分の作品」「自分のすべきこと」という手応えが得られなかったという。今のように、素材や技法に対し、ある意味受け身な今の制作のほうが、自分らしさを模索していけるとのこと。
 果たして私の手は意志をもつのだろうか。私の手は未来を考えるのだろうか。私の眼は?耳は?未来に向けて何かを発信しようとするだろうか。知性は未来をイメージする。今ここのことではない世界をイメージできるということは、今ここにある現実ではないことをイメージできるということ。それはすなわち噓をつけるということ。虚構を作ることができるということ(世界についても自分に対しても)。そして人間である以上、こうした噓、虚構を切り離して存在することはできない。信じることも、夢見ることも、つまりはそこから生まれてくるものなのだ。しかし、それでもなお。人間は「ありのまま」「あるがまま」の自分との出会いを夢想する。透視図の消失点のように、どこまで近づいても触れることはできないとわかっていても。
 私ごとであるが、以前「誰カガ私ヲ作ッタヨウニ、私モ何カヲ作ロウト想ッタ」というタイトルの個展をしたことがある。シルクスクリーンでドーナツ型の模様をちりばめた布を宇宙と見立て、その布が材料となっていろいろな作品が生まれてくる。その中心にはその布を使い、私自身の身体から型紙をおこして作った私の等身大の縫いぐるみがある、というものである。今から思うと、我ながら理屈っぽいなあと思うが、それでも、その制作を通じ、私はさまざまにモノが生じるということ、そして自分が存在することへの想いを馳せた。
 私のこの極めてコンセプチュアルな個展と、山本氏の何も考えらしい考えをもたずに臨む制作。表現の在り方としては真逆である。しかしそれは、意図的か無意識かの違いだけであり、自らの存在の消失点にたどりつこうとする営みであるという点で全く同じものだったのではないだろうか、私にそんなふうに感じられる。強く。
 私の手が、私の眼が、その届く範囲にある素材によって、その赴くままに何かを生み出して行く。その作品が「なる」ように私も「なり」、その作品の「在る」ように、私も存在する。そしてその作品のように世界と関わりを持つ。その作品を生じさせたその同じ世界に私も生まれ、作品が生まれた「今」「ここ」は、作品とともに私がもう一度生まれるための「今」「ここ」だったんじゃないかと。作家と作品の関係、作家が作品を作り続けることの根源にあるもの。そんな想いに誘ってくれた山本氏の展覧会であった。
 

展覧会は2月5日(日)まで

名古屋市東区葵2-3-4三光ビル1F

ギャラリー フィール アート ゼロ

http://www.life-deco.net/
(アドレスをクリックするとギャラリーのホームページにリンク)。





関連タグ:展覧会 現代美術 鑑賞法 

Posted by yamagu at 11:52  パーマリンク

11.12.16


動画で紹介してきた「段階的制作法」、この制作の手法そのものは私のオリジナルではありません。昔から行われてきた手法で特別なものではありません。かといって、段階をどのようにわけ、それぞれにどんな目的をもって取り組むかということまでひとつの見解があるわけではありません。そこに指導者としての創意工夫が発揮されるのです。指導のポイントは、単に段階的制作そのものを教えることにとどまるのではなく、この手法を道具として、指導者がどのような教育的意図を具体的に実践していくかということ。

このような段階的制作することが、絵画の初学者に対しどのような意味や目的をもたらすことができるのか、どのような問題意識でその手法による制作に臨ませたらよいのか、そして指導者である私がこの手法を通じて学生にどのようなことを伝えようとしているのか…こうしたことを明確に学生に示し理解させていくこと、それが重要なポイントになってきます。

ここで紹介する制作法は、従うべき「答え」ではなく、自分がどう描いていくかを探るための「問い方」なのです。中国の故事に、飢えた人に魚を与えるのではなく、釣り竿を与える…というものがあります(意味はわかりますでしょうか)。この故事に例えるなら、私が示す制作法は魚ではなく釣り竿だということです。

同じ魚を一律の調理方法で同じ味付けにして与えるような指導法ではありません。例えば私が与える釣り竿が同じであったとして、それを持った学生は海なり、川なり、湖なり、好きなところに行って好きな魚を釣って、好きなように調理して食べることができるようになってほしいのです。

どのような釣り竿で、どのように使うのか、学生それぞれの進行状況やそれぞれの方向性に合わせ、それぞれの段階に応じて指導していく、それが私の授業です。


Posted by yamagu at 15:03  パーマリンク

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